<現代映画作家としての出発 イーストウッド第一作『恐怖のメロディ』>
『恐怖のメロディ』は言わずと知れたイーストウッドの監督第一作であるが、当初観る者には驚きをもって受け入れられた。それまでマカロニ・ウェスタンなどで演じてきたいかにも男臭いヒーロー・イメージで売ってきたイーストウッドが、当時はそんな言葉もなかった「ストーカー」女にえらい目に遭うという被虐的な物語だったこと。『ダーティハリー』が全く同年(71)に公開され、イーストウッドのマッチョなイメージをさらに強化したこともそれに拍車をかけただろう。イーストウッドのマゾヒズムについては、これも同71年にドン・シーゲル『白い肌の異常な夜』という極めつきも既に撮られていて、イーストウッド的映画世界にそうした嗜好があることも今では常識の範囲になっているものの、『白い肌の異常な夜』がシーゲルとしてもイーストウッドとしても例外的な作品と見なされたために、一貫した嗜好性が見えにくかったことも、本作のマゾヒズムがことさら新しいものとして受け取られた一因であったろう。とはいえ、何と言っても『恐怖のメロディ』が、一個の映画としてただならぬ演出力を示していたこと、そのことが当時としては最大の驚きだったのだ。しかし、その演出力の質について、これをいかにも職人的な、ジャンル映画を巧みに演出する能力、と受け取ってしまうとイーストウッドの歴史的位置を間違いかねないので、今回はそのあたりに焦点を絞って書いてみよう。
今回、久しぶりに本作を見直してみて驚いたのは、スリラーの演出としては結構型どおりであることだった。例えばジェシカ・ウォルターがナイフを持って主人公に襲いかかるところなど、襲う方を仰角で、襲われる方を俯瞰で、共に手持ちカメラで揺れ動きながら、視界を狭く撮っていたりするのだが、誰が見てもヒッチコックの『サイコ』を想起してしまうのだし、また、主人公が危機にある恋人を救いに行く場面も、恋人と自動車を駆る主人公(しかもご丁寧に主人公の顔を床から仰角でナメ上げ)の素早いカットバックと、いかにも教科書的な演出である。イーストウッドにもこういう時期があったのだといささか感慨深いものがあった。
しかし見直してみて最も興味深かったのは例えば、自宅で自殺未遂したウォルターを抱き、放心状態のイーストウッドの目にカメラがズームしてゆき、二重写しで、同じ目を捉え、今度はカメラがズームアウトして全く二人の姿勢が変わらないまま夜になってしまっていることを示すショットだったりする。このショットを本作の白眉と捉える批評は既にある(上島春彦「映画作家イーストウッドの誕生」、『e/mブックス7 クリント・イーストウッド』所収、またとりわけこの場面のみを挙げているわけではないが、中条省平『クリント・イーストウッド』ちくま文庫、も。今回あまり資料渉猟していないが他にもあるかもしれない)が、ともあれこの場面は持続時間が相当長く、スタジオ・システム時代の効率性という事でいえば、多少の間を持たせたカットつなぎで良く、いささか長きに過ぎるのである。ただし、その長さそのものが、凍りついた時間の長さを観る者に体感させるということはあり、必ずしも物語を語ることに貢献していないわけではないにしろ、物語を「効率よく」語るというのとはまた別の演出方法に踏み出していることが分かる。
同様の時間を現出しているのが、イーストウッドと恋人が森の中でデートする場面(これは半ば過ぎ辺りだが、冒頭辺りにも、海辺を二人で散歩する少し長い場面がある)。ズームで彼らを捉えたショットは、確かに彼らが大きな自然の中にあることを意識させつつ、しかも周囲がボヤけ、彼らのみに焦点が当たっているために、親密な雰囲気を感じさせる。また、手前の葉っぱに焦点が当たっていた画面が、ピント送りされると、それまでボヤけていた、泉の中で裸で抱き合っている二人を捉えるといったショット。彼らが愛し合っていることを示すショット一個あればよい場面である。先のイーストウッドの目へのズーム・イン&アウトはまだしも物語に奉仕していると言えるのだが、これらの場面は明らかにそれを超えて冗長に見える。六十年代的なヒッピー・ムーヴメントの余波で、自然との一体化、のような意味もあるだろうし、ズームの使用自体が年代を感じさせるのだが、いずれにせよこうした物語の効率性からはみ出した時間、というものが、やはりイーストウッドの現代性なのではないか(イーストウッドがその第一作から現代映画作家であったという点については上記上島春彦参照)。
しかしだからといってイーストウッドは、物語を語ることを放棄はしない。あくまで物語を語りつつ、しかし完全に現代映画の方に振れることもなく、古典期と現代の中間にとどまることを選択するのである。物語を語る映画であるからこそ、それをはみ出す細部が違和を掻きたて続けるということもあるだろう。イーストウッドが人気作家でありつつ、しかも映画の現代に関心がある人々にとっても気になる存在であり続ける理由はその辺りにあるだろう。古典期と現代の中間的な作家としてのイーストウッド。映画作家としての出発点からイーストウッドがイーストウッドであったことを、本作で確かめてもらいたい。
「恐怖のメロディ」
[WOWOWシネマ][字]5月8日(火)よる9:00
「恐怖のメロディ」© 1997 Universal Television Enterprises,Inc. ARR
<セルジオ対イーストウッド、そしてドンの関係とは?>
映画『許されざる者』は「セルジオとドンに」捧げられている。ドンはドン・シーゲル、セルジオがセルジオ・レオーネだというのはまあ常識だろう。この二人の映画監督がイーストウッドにとってどれほど重要な存在だったかについては、何篇もの刺激的なエッセーや論考が既に書かれているからだ。ところでイーストウッドにとってシーゲルは友人だったり師匠だったりするわけだが、レオーネはどうなんだろう、と改めて考える。友人でも師匠でもある、と言ってしまえたら簡単だがそういう気がしないのだ。
実は彼らはある時期ほとんど絶交状態だったことが知られている。「カンヌで『バード』(88)をはじめて上映したあと、私はイタリアまで彼に会いに行き、一緒に楽しい一日を過ごしたよ」(彼の肉声の翻訳は谷昌親。以下同)という言葉が残されており、ここで長いいさかいの時期を脱したのだとわかる。レオーネは『ウエスタン』(68)にイーストウッドを起用したかったのだが断られ、この件が両者わだかまりの原因の一つとなっていた。「それまでに西部劇をすでに三本やっていなければ、『ウエスタン』に出るのもおもしろかっただろうね。でも私にとっては、何か別のことを試みる時期になっていたんだよ」。というわけで彼等の三本目、最後の協働作業となった西部劇が『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』(66)である。
イーストウッドの映画的キャラクターを確立したのがレオーネ監督との仕事だったのは間違いないのだが、監督にしてみればそれは全て自分のアイデアだし、一方俳優の側からは自分が彼のアイデアを磨き上げなかったら何の成果もあげなかったはずだ、ということになる。現場での数種類の脚本は混乱を極め(本国イタリアで公開される版はイタリア語で吹き替えられるのが原則だが、出演するアメリカ人俳優たちは英語しか出来ないからフラストレーションが溜まるのも道理である)、当時、赤狩りでイタリアに逃れここで台詞指導にあたっていた俳優ミッキー・ノックスはあっさりクビにされてしまっている。
結局、傑作というのはこういう波乱含みの状況からしか生まれないのかも知れない。まともな撮影用台本もない映画を「救ったのは俺だ!」と、昇り調子の監督もスター俳優もどちらも考えていたに違いないのだ。こういう問題に正解はない。ただ言えるのは、どうやらレオーネとイーストウッドは友人でも師弟でもなく「ライバル」なのだ、ということ。そしてそれに意識的だったのがレオーネでなくイーストウッドだった、という点だ。多分この時点でイーストウッドは一俳優としてではなく、もっと企画全体を統御する立場から映画に関わりたいと考えるようになっていた。そして事実、本作を最後にイーストウッドはイタリア映画界を離れた。アメリカに戻った彼は初めて自身の企画により『奴らを高く吊るせ!』(68)を実現させている。すると大ざっぱに述べればこういうことだ。『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』とは『ウエスタン』と『奴らを高く吊るせ!』という二つの映画を産出した母胎の映画なのである。
監督レオーネと俳優イーストウッドが組んだ『荒野の用心棒』(64)、『夕陽のガンマン』(65)そして本作『続・夕陽のガンマン』はアメリカでは「名無し」三部作と呼ばれる。それぞれ別な人格の人物で、実はちゃんと名前もあるのだが...。やはり謎めいた賞金稼ぎという共通する映画的キャラクターの面白さに、いわば「引きずられる」格好でこうした認識が生まれたのだろう。だから今こそ三本が皆全く異なる魅力を持っていることを強調しておきたい。本作が他二本と最も違っているのは主人公が三人、それがほぼ同格で描かれている点にある。原題を読めばわかる。『いい奴、悪い奴、醜い奴』。順にイーストウッド、リー・ヴァン・クリーフ、イーライ・ウォラックである。面白いもので主人公キャラクターが二人だとどちらかに肩入れしてしまうが、一人加わるとうまい具合に観客にもバランス感覚が生まれ、等分に見ることが可能になる。逆に言うと「いい奴と悪い奴」だけだったら「イーストウッドとクリーフ」に決まっているのに「醜い奴」ウォラックが入ったとたんに、彼等全員が「良くて、悪くて、醜い奴」に見えてくるのだ。
そうした感じ方は意図的な演出によるものだと思う。イーストウッドは本作で確かに賞金稼ぎだが結構「インチキなヤツ」で賞金首ウォラックを捕まえては保安官にひき渡し、絞首刑の現場で救い出して逃がす、というのを繰り返している。その度に賞金が貰えるし賞金額も上るしで万々歳、という仕組みである。別にこれはウォラックと組んでやっているわけじゃない、というところがミソで、ネコがネズミをいたぶる感じか。役名「ブロンディ」というのもよく考えると可笑しい。あまり金髪っぽくない。このあたり、多分イタリア製だが西部劇、というこのジャンルの危うい存立基盤自体を映画が笑っている。自己言及的な笑い。そういうあり方をイーストウッドの軽妙な演技がよく支えている。そう考えると、この映画で一番真面目なのはクリーフである。やっぱりイーストウッドとクリーフが逆の役でも良かったのか。いや、それは冗談で、ここでわざわざコメディ・リリーフみたいなキャラに挑むところがイーストウッドの自己批評なのだが。こうした独特な「レオーネ=イーストウッド」西部劇のスタンスが完成したのがこの作品だったのだ。
ところでレオーネとイーストウッドが真正面から対峙するとライバル、だとして、そこにあえてドン・シーゲルを入れて三人一組にするとどうなるか、と言うと、そういう事態は起こらなかったわけだから考えるのは無意味ではあるが、最もそれに近づいたのが『真昼の死闘』(監督ドン・シーゲル、70)だと思う。ここでシーゲルとイーストウッドは「レオーネ西部劇」風西部劇という「ほとんど冗談」を大真面目に実現させているのである。
「続・夕陽のガンマン 地獄の決斗」
[WOWOWシネマ][字][5.1] 5月9日(水)午後5:45
「続・夕陽のガンマン 地獄の決斗」© 1966 Alberto Grimaldi Productions S.A. All Rights Reserved.
<エド・ニューマイヤー、『宇宙の戦士』に人生を捧げた男>
「スターシップ・トゥルーパーズ」シリーズ全3作が一挙放送! そう聞いた方の中には「でも面白いのは1作目だけですよね?」と言う正直すぎる人も多くいるでしょう......。でも、ちょっと待って! 確かに1作目でポール・ヴァーホーヴェンがアピールした人間と宇宙昆虫が織りなす暴力絵巻は世界中の誰に見せてもハートをカツアゲできるデキですが、1作目しか観ない人に『スターシップ~』を観る資格はありません。それでも、「2作目と3作目は1作目がヒットした賞味期限があるうちにテキトーに作っただけじゃないの?」とお思いの方もいるでしょう。そんなことはありません! 「スターシップ~」にはシリーズ3作を観て、浮かび上がってくる男のドラマがあるのです!
そのドラマとは――ポール・ヴァーホーヴェン以上にスターシップ魂が入った男の物語。その男とは、シリーズ1作目と2作目の脚本を担当し、3作目では遂に監督の座を勝ち取ったエド・ニューマイヤー。このシリーズは彼の戦いの歴史なのです。
エド・ニューマイヤーとは、脚本はヴァーホーヴェンのハリウッド・デビュー作『ロボコップ』で映画脚本デビューを飾ったシナリオ・ライター。彼が『スターシップ・トゥルーパーズ』童貞を捨てたのは中学のとき。映画の原作となったロバート・A・ハインラインのSF小説『宇宙の戦士』を読んだときであった。それ以来、『宇宙の戦士』に魅了されたニューマイヤーは「いつか映画化しよう」と夢見ていた。ちなみに『宇宙の戦士』といえば、パワード・スーツを登場させたことにより、『機動戦士ガンダム』を筆頭に多くの作品に多大な影響を与えた、世界的に大事な作品。それだけに90年代中頃、「ヴァーホーヴェンが『宇宙の戦士』を映画化する」というニュースを聞いた原作ファンの多くが「『ロボコップ』の監督がパワード・スーツを映画化するんだから、こりゃ凄い作品になるかもしれない!」と狂喜した。しかし、ヴァーホーヴェンはまったく原作に興味がなかった。というよりも小説をまともに読んでいなかった。そもそも彼がまず描きたかったのは、巨大昆虫に人間がブチ殺されるシーン。そのため、ヴァーホーヴェンは「パワード・スーツなんて着られた日には、人体を景気よく破壊できないじゃないの!? それに、パワード・スーツなんて出したら予算がかかるでしょ!」と思ったかどうかは知りませんが、皆さんもご存知のように映画化にあたってパワード・スーツをアッサリと却下。この強気すぎる判断を例えるなら、『ガンダム』を映画化する際にモビルスーツをビタ一文も出さないようなもの。完全に原作ならび原作ファンをナメてるとしか思えません。
しかし、完成した映画は、今さら書く必要はないですが、感性の鋭い人が観たらグッと来ること間違いなしなクオリティ。ヴァーホーヴェンの俺ジナルな感性に敬意を表さずにはいられません。ちなみに、この原稿の主役で1作目の脚本を担当したニューマイヤーは「ヴァーホーヴェンの描いたブラック・ユーモアは素晴らしい! でも、できればパワード・スーツは出して欲しかった......」と悲しんでいたといいます。そして彼は思いました。「もしも次回作があるのなら、今度こそパワード・スーツを出してやる!」
チャンスは訪れた。2003年、2作目『スターシップ・トゥルーパーズ』が製作されることになり、ニューマイヤーは再び脚本を担当することになった。話はズレますが、かつてリドリー・スコットの『エイリアン』(1979年)の続編『エイリアン2』(1986年)が作られたとき。監督のジェームズ・キャメロンが「リドリーに負けてたまるかよ!」と闘志を燃やした結果、『宇宙の戦士』を元ネタにした宇宙海兵隊VSエイリアン軍団という物量作戦を展開。それに合わせて日本公開時の宣伝コピーも「今度は戦争だ」と豪気さをアピールしていました。
いっぽう、『宇宙の戦士』を映画化した本家は、1作目からイキナリ豪快な宇宙の戦国絵巻を描いてくれたので、2作目はどんだけ予想をフライングした映像を見せてくれるのだろ!? とファンは期待しました。しかし......予算が1作目の15分の1に節約されたため、ゴージャスな宇宙戦争からこじんまりとしたゲリラ戦にスケールダウン......というある意味、予想をフライングした映像を僕らに披露。と書くとバカにしていると思われますが、そんなことは一切ございません! この作品の監督は1作目で宇宙昆虫をクリエイトしたフィル・ティペット。彼は2作目の限られた予算のなかで、「スターシップ」風味を醸し出す為、人間に寄生する「パラサイト・バグ」という斬新かつ原作をさらに無視したクリーチャーを登場させ、スリリングな物語を作ろうと奮闘。個人的にも1作目のスピンオフ的な映画として、非常にポイントの高いデキだと思います。だが、予算が切り詰められたのでニューマイヤーの夢・パワード・スーツの登場は叶うことはありませんでした。ニューマイヤーは思いました。「もう一度チャンスがあればパワード・スーツを......」。
そんな彼にチャンスが訪れます。なんと3作目『スターシップ・トゥルーパーズ3』(2008年)の制作が決定し、今度は脚本だけでなく監督も担当することになった! しかも、予算は2作目の約3倍! と書くと一見景気のイイ話ですが、1作目と比較すると5分の1......。でも、これだけの予算があるならパワード・スーツを出すしかない! ニューマイヤーは燃えた。そして主演には1作目で主人公ジョニー・リコを演じたキャスパー・ヴァン・ディーンを再投入。
映画の舞台は1作目の11年後。さらにニッチもサッチもいかなくなった宇宙昆虫との戦いを生き抜くリコの姿は、実生活でも『スターシップ~』1作目の主演以降、『ヴァン・ヘルシングVSスペースドラキュラ』(2004年)、『ツタンカーメンの秘宝』(2006年)などの微妙すぎる出演作ばかりに出ていたキャスパー自身が醸し出す、激安戦線を生き抜いてきた男の凄味が最大限にスパークしており、絶妙なキャスティングになっている。そしてクライマックス、遂にニューマイヤーが「スターシップ」シリーズに関わってから苦節15年の時を経て実現したパワード・スーツの登場シーンに注目! パワード・スーツの微妙なデザイン&あまりに呆気無さすぎる活躍ぶりを含めて、「この人は15年かけてコレを出したかったのか......」と思い、ちょっぴり大人になれることをお約束します! 皆さん、この機会にぜひ、『宇宙の戦士』に濃密かつ無駄に長い人生を費やした男の人生を味わってみてはいかがでしょうか? ちなみにニューマイヤーの最新仕事は荒牧伸志監督のアニメ版『スターシップ・トゥルーパーズ』のプロデュース。彼のスターシップ人生はまだまだ続きます。
<オンエア一覧>
「スターシップ・トゥルーパーズ」
[WOWOWシネマ][字][5.1]3月16日(金)よる10:45
「スターシップ・トゥルーパーズ2」
[WOWOWシネマ][字][5.1][R-15指定]3月16日(金)深夜1:00
「スターシップ・トゥルーパーズ3」
[WOWOWシネマ][字][5.1][R-15指定]3月16日(金)深夜2:45
「スターシップ・トゥルーパーズ」©Tristar Pictures Inc and Touchstone Pictures.
「スターシップ・トゥルーパーズ2」©2004 Sony Pictures Home Entertainment Inc. All Rights Reserved.
「スターシップ・トゥルーパーズ3」© 2008 Star Troopers(Pty) Limited and ApolloMovie Beteiligungs GmbH.All Rights Reserved.
<男が作った男のための映画、『プレデター』>
1987年の公開から早25年。いま思えば『プレデター』第1作は相当に斬新な映画だった。宇宙から来たモンスターが罪のない市民を無差別に殺して回る映画は87年当時すでに売るほどあった。大方の場合において残虐無比なクリーチャーは食うためとか繁殖のためとかいった様々な理由で、あるいは大した理由もなく殺戮を重ねる。けれども本作における怪物、プレデターの目的は狩猟。強い者を狩るためだけにやって来る。ということは一般人には用がない。どういう理屈かは知らないが狩るに値する獲物の闘争本能を嗅ぎ付けて飛来、ハンティングを満喫したら犠牲者の頭蓋骨をぶら下げて国に帰るのだ。
そんなわけで映画には何しろ男ばかり出てくる。映画の過剰極まりない男っぽさは序盤から全開だ。最強コマンドー部隊の隊長、シュワルツェネッガーがCIAの役人ディロン(『ロッキー』シリーズのアポロでお馴染み、カール・ウェザース)と久しぶりに再会。二人はガッと握手を交わしたかと思ったら立ったまま腕相撲大会に突入。青筋を立ててグググと盛り上がる二つの力こぶが大写しになるのだから常軌を逸している。この後も画面に出てくるのは屈強な男男男、しかも異常に屈強な戦闘のプロばかりだ。大盛りライスと肉団子だけが詰まった特大弁当のような映画だというほかない。
という男たちがじゃあ地球の命運をかけて異星人と戦うのかといえばそうではなくて、プレデターによってただただ狩られていく。普通の映画であれば死んでも死なないような筋肉ダルマたちが次々に、あっけなく死ぬ。最終的にはシュワルツェネッガーただ一人が南米のジャングルの奥深く、半裸で宇宙人と殴りあう。やはり相当に変わった映画だ。
しかし変な映画だなあとじわじわ思えてくるのはあくまで鑑賞後しばらく経ってからの話で、観ている間はシュワルツェネッガー率いる男たちの武骨な格好よさ、そして監督ジョン・マクティアナンの手堅い仕事に引き込まれる。狩人プレデターは光学迷彩で姿を消し(25年前はこの特撮がなかなか衝撃的だった)、部隊に迫る。姿の見えない敵に追い詰められていく男たち。映画を通して緊張感が途切れない。監督の手腕はこの後の『ダイ・ハード』で満開となるが、何といってもこの当時のマクティアナンが素晴らしいのはタイトな演出の要所要所にハッタリとケレンを入れ込んでくるところだ。
たとえば映画終盤、手負いのカール・ウェザースにプレデターが全力疾走で迫る。怪物は姿を消している。物凄いスピードで森が動くように見える。腕に仕込んだナイフだけがギラリと光る。死に物狂いで反撃を試みるも一瞬のうちに仕留められるウェザース。ジャングルに断末魔が響く。この一連の流れ。この高揚感。ここだけ何度も観てしまう。
あるいは言葉少ないシュワルツェネッガーがたまに発する台詞の決まり方と言ったら。いよいよ自分たちが得体の知れない化け物に狙われていると悟る。戦慄する部隊。だが敵が怪我をして血を流していたことを知ったシュワルツェネッガーは、振り返って皆に一言だけ言う。「血が出るなら、殺せる」。気持ち煽り気味のカメラに振り向いてこの台詞を決める瞬間。この画作り。この間の取り方。我々は思わず立ち上がって「シュワルツェネッガー屋!」と歓声を送る。こんな物騒な台詞を振り向き様に、ぶっきら棒に言い放って絵になる男がいま何人いるのか!と無闇に熱くなって問いたくなる。
そしてついに怪物プレデターとの一騎打ちに臨むシュワルツェネッガーが月を見上げ、松明を高く掲げて咆哮を上げるシーン。よくよく考えれば極めてバカみたいな場面だが、しかし月夜のジャングルに横溢する野蛮さ。そして崇高さ。こういうケレン味が病みつきになるのだ。とにかく捨てカット、捨てシーンなし。いいところだけちょっとだけ見て寝ようと思ったら結局全部観てしまう。そういう映画の代表格が『プレデター』なのだ。
何しろ本作はシュワルツェネッガーの最高傑作といっていい気がしてきた。申し分のない筋肉の切れとシャープな顔つき。緻密に無愛想に仕事をし、無造作に殺す。後のシュワルツェネッガー映画に顕著となる、女子供へのアピールのための余計な茶目っ気はまだない。この後90年代に入ると政治家転身にむけて上記アピールに余念がなくなっていく。と同時に殺気が消えてくる。『ターミネーター2』で、殺人マシーンのくせに人を殺さなくなったシュワルツェネッガーに覚えた違和感。または子供のクリスマスプレゼントを買いに奔走、間抜けな姿をさらす『ジングル・オール・ザ・ウェイ』など観たときの寂寥感といったら。それに比べて最強コマンドー時代のシュワルツェネッガーは本当に最高だ......。
この時期のシュワルツェネッガーは戦略的に、アクション・バイオレンス映画の名手や奇才、あるいは俊英と組んだ。ウォルター・ヒル、キャメロン、ジョン・ミリアス、そしてヴァーホーヴェン。つまり男の見せ方を熟知した男たちと組んでいたと。『プレデター』もそういう路線の一環だった。
ということで男が作った男のための映画。それが『プレデター』だ。ダニー・グローヴァーが大都会ロサンゼルスで黄色いシャツに汗染みを作って奮闘する『プレデター2』、あるいは戦うことしか能がないやさぐれ者たちが未知の惑星で新種のプレデターに追われるシリーズ最新作『プレデターズ』もそれぞれに見所はある(特に『2』は様々な部分で味わい深い、愛すべき作品だ)。けれどもその着想の新しさ、全盛期のシュワルツェネッガーのソリッドな魅力、全篇にみなぎる緊張感とハッタリ。そうしたことを全て踏まえるとやはり第1作こそが至高であると言わざるを得ない。
<オンエア一覧>
「プレデター」
[WOWOWシネマ][字][5.1]3月4日(日)午後3:00
「プレデター2」
[WOWOWシネマ][字][5.1]3月4日(日)午後4:50
「プレデターズ」
[WOWOWシネマ][字][5.1][PG12指定]3月4日(日)よる6:40
「プレデター」©1987 Twentieth Century Fox Film Corporation. All rights reserved.


特集:偉大なるイーストウッド「ヒア アフター」(大久保清朗)
<謎の味わい――クリント・イーストウッド『ヒア アフター』>
やがて、セシル・ドゥ・フランスと運命的な邂逅をとげるデイモンにとって、ハワードは、これまでにもいやというほどくり返されて来たであろう苦々しい出会い以上のものでもない。しかし、視覚をとざされ、残された感覚器官によって供された食材のあてるという、ごくささやかな余興的演習が、突然、スリリングな官能性を帯びることになる。
自らの過去を披瀝しながら、さしだされる食物を受けとめるハワードの無防備さ。彼女の薄い唇からのぞく桜色の舌先が、ほとんど無機質ともいえる彩度の低い画面に、ときならぬ華やかさをそえる。丹念な切り返しによって、ふたりがお互いの親密さを確かめあっていくこの演出は息を呑むしかない。ブルース・サーティースからジャック・N・グリーンを経て、撮影がトム・スターンにかわり、画面はいよいよ格調高く、重厚さを増しているかのようだ。
だが近年のイーストウッド映画の謎はここから始まる。本人がしばしば公言して憚らない「物語」への揺るぎない信奉にもかかわらず、彼はその粘着的な演出力を、傍系的ともいえる細部に投入する。CGを駆使した大津波や、あるいはロンドンの地下鉄での爆弾テロといったカタストロフ描写の淡泊さと比べるといっそう際立つ。この力の入れ方は、いったい何なのか。
イーストウッドの演出の不均衡は、『J・エドガー』でいよいよ明らかとなりつつあるようだ。初代FBI長官の権力掌握とそれとともに昂進する偏執という、社会的病理学的なアプローチは瑣末といって言いすぎであれば稀薄であり、妙に、なまめかしく記憶に残るのはレオナルド・ディカプリオとナオミ・ワッツとの図書館での、ふたりの濃密な信頼が硬化していく場面の、何という美しさ。だがその関係は破綻とも成就ともつかぬものとして、その後の生を支配する。
この無償の不均衡は何なのか。どこへともたどりつかない疑問だけが、まるで見知らぬ食材のように、口もとに運ばれてゆく。とりあえず嚥下するが結局、いま食したものが「何」なのかは最後まで分からない。ただ舌先にほのかな味わいだけを残して。
「ヒア アフター」
[WOWOWシネマ][字][5.1]5月11日(金)よる9:00
[WOWOWプライム][吹][5.1]5月20日(日)午後0:00
「ヒア アフター」© Warner Bros. Entertainment Inc.