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<パラダイスの夕暮れ>

 011341_001_key_a.jpg奇しくも、つい先頃『カリフォルニア・ドールズ』(1981)と共にリバイバル上映されたロバート・アルドリッチ監督の入魂の政治サスペンス映画『合衆国最後の日』(1977)の原題Twilight's Last Gleamingは、"黄昏の最後のきらめき"を意味するが、夕暮れ時、太陽が地平線に沈んでから夜の帳が降りるまでのほんの短い間、淡い残光が周囲を柔らかく包み込み、そこに奇蹟のように神秘的で美しい異次元の時空間が立ち現れる。「そうしたわずかな時間においては、光はまさに魔法の趣きを呈し、そこでは、もはや光がどこからくるのかわからず、太陽は姿を消し、しかし空は明るく澄みわたって、しかも大気の青は不思議な変化を遂げていくのだ。」(ネストール・アルメンドロス「キャメラを持った男」)。こうして、監督のテレンス・マリックと、エリック・ロメールやフランソワ・トリュフォーなど、ヌーヴェル・ヴァーグ映画の名キャメラマンとしても知られるアルメンドロスがコンビを組み、1日24時間のうち、わずか20分ほどの貴重な"マジック・アワー"を撮影の時間にフル活用して生みだした映画『天国の日々』(1978)は、テキサスの広大な草原地帯を背景に(ただし実際の撮影場所はカナダ)、そのうつろいゆく儚い光と影の繊細な色調の変化を鮮やかにフィルムにすくい取った、思わず溜息が出るほど美しい珠玉の映像作品として、映画史にその名を刻みつけることになった(第51回アカデミー撮影賞にも輝いた)。
 
 それに加えて、一面見渡す限り広がる麦畑と、その奥の丘の上にポツンと聳え立つサム・シェパード扮する農園主の邸宅の光景は、アンドリュー・ワイエスやエドワード・ホッパーの風景画を、そしてまた、陽光が降り注ぐ窓際の机で手紙を書き綴るブルック・アダムスの姿は、ヨハネス・フェルメールの静謐な絵画をただちに彷彿とさせる。さらには、映画の冒頭、20世紀初頭のアメリカの庶民の姿や都市・街路の景観を映したセピア調の古い写真のモンタージュによるタイトル・クレジットに被せて、サン=サーンスの組曲「動物の謝肉祭」の中の「水族館」の幻想的な旋律が流れるのも、観る者をどこかメランコリックで郷愁を誘う独自の詩的世界へと導き入れるのに大きく役立っていると言えるだろう。

 そう、『天国の日々』は確かにきわめて美しい。撮影は超一流だし、音楽や美術・衣装などのスタッフ・ワークも素晴らしい。まだ映画デビューして間もないリチャード・ギアやアダムスらの初々しい演技も新鮮で、なかなか魅力的ではある。しかしその一方で、肝心のマリック監督の演出手腕ははたしてどうか? ドラマの構成力は? となると、疑問がむくむく湧いてきて、つい考え込んでしまう。彼はその場でざっと即興的に撮りためた短いスケッチ風の印象的なショットの数々を、編集によるパッチワークで実に巧妙に繋ぎ合わせて、何とかそれらしい一つの作品に仕立てているだけではないのか。本来は途切れ途切れのそれらの物語の断片を結び付ける接着剤的な役割を果たしている、少女役リンダ・マンズのあの奇妙なモノローグこそが何よりの曲者で、物語の語り手というにはどこか従来の役割から遊離した、その気まぐれで省略や飛躍に満ちた独特の口調やリズムが、説話上の欠陥を上手く覆い隠しているのではないのか。はたして、マリック監督が事前の入念な準備よりも即興重視でこの映画の撮影現場に臨み、撮影が終了した後、フィルムの編集作業に2年以上の歳月を費やして、物語上の大きな流れを構築するのに悪戦苦闘した末、前作『地獄の逃避行』(1973)のシシー・スペイセクの例と同様、マンズのヴォイスオーヴァー・ナレーションを採用することでようやくその解決策を見出したことを筆者が知って、やっぱりそうだったか、と深く頷いたのは、つい最近になってからのことだが、その疑問は本作を公開当時に最初に見た時からずっと脳裡につきまとっていた。

 ここで唐突ながら、ごくささやかで私的な思い出話を打ち明けさせてもらうことをお許し願いたい。あれはたしか、まだ筆者が学生時分の1980年代後半(だったと思う)、東京のとある名画座にこの『天国の日々』を見直しに出かけた時のこと。もうかれこれ四半世紀も前のことで詳しい細部や前後の状況はほとんど記憶に残ってないが、映画を見終えたところで、館内に誰あろう、あの今は亡き相米慎二監督の姿を発見して、「あっ、ソーマイだ!」と驚いて思わず興奮したこと、「でも、なぜソーマイがこの映画を?」と、その意外な取り合わせを不思議に思ったことだけはよく覚えている。とはいえ、こちらは所詮ただの映画小僧だったので、思い切って監督に話しかける勇気もなくそのまま映画館をあとにして、当時の日本映画界のまぎれもない台風の眼だったこの伝説的監督との接近遭遇も結局それっきりとなり、彼がその後、この映画のことをどこかで語ったり書いたりしているかどうかも、寡聞にして知らない。ただ(ここからはあくまで筆者の憶測にしか過ぎないが)、やはり相米監督にとってマリック作品は、両者の演出に対する姿勢や作風の違いからして根本的に受け容れられないものだったのではないだろうか。共に優秀な撮影技術に支えられている点では似ていても、あくまでも雄大な自然の中の点景として人物たちを配し、絵画的な構図や編集作業による断片の積み重ねによって詩的な映像美を構築するマリックの映画作りに対し、相米映画においては、緊迫した持続的なキャメラの動きの中で、画面の枠組みを大きくはみ出してまでも躍動する人物たちの変容や成長のさまにこそ焦点が据えられ、その時、構図や映像の美しさなどは二の次に過ぎなくなってしまう。

 本作を苦労して仕上げた後、不意に映画界から遠ざかって長らく隠遁していたものの、その後、20年にも及ぶ長い沈黙を破って奇跡の復活を遂げ、地獄と天国の間の細道を抜けて新世界へと渡り、さらには生命の樹をたどって宇宙の起源へと遡り、神の御許へ到ろうとしている"生ける伝説"マリックの歩みを、ひと足先に天国へと旅立った(それともいまだ東京上空をふらふら漂っている?)相米慎二はどう見つめているのか。今あらためて勇気を奮い起こして、天に向かって訊ねてみたい気もする。


「天国の日々」
[WOWOWシネマ][字][5.1]12月11日(火)よる9:00
[WOWOWシネマ][字][5.1]1月7日(月)午前11:15



「天国の日々」TM & Copyright © 2012 By Paramount Pictures. All Rights Reserved. 


<天然の人、マリック―『地獄の逃避行』>

 010390_001_key_a.jpg――おい、ナット・キング・コールだぞ。
 と、ラジオから流れるバラードに、キャデラックのハンドルを握る青年は、助手席の少女に熱っぽく声をかける。なるほど、さきほどから甘くねっとりとした歌声が漆黒の闇を浸しているのだが、少女は相手に共感するそぶりすら見せようとしない。キットという名のその青年がいらだたしげに車を停める。テレンス・マリックのデビュー作『地獄の逃避行』(73)の終わりは、もうそれほど遠くない。
 
 少女の父(ウォーレン・オーツ)を射殺し、彼女の家に火を放ち、かつての同僚すら撃ち殺す。そんなキットの無軌道ぶりを見てきた者として、先の読めぬ彼の行動は不安をかきたてる。だが彼はただ、路上に彼女を連れだし、フロントライトを頼りにダンスをし始める。殺意はないものの、だからといって不安は解除されず、そのまま曖昧に停滞する。マリックの作家性が結晶化しているといわれるこのシーン(※1)の、あの不思議な感触は何か。この映画が「無表情なものすべてに表情をあたえる」(※2)としたら、それはどんな「表情」なのか。

 夜のドライヴにバラード。これは『キッスで殺せ』(55)の禍々しい幕開けに酷似、というより、暗闇に浮かぶ若いカップルの顔は、下から当てられた照明による表情の不気味さともども、アルドリッチの傑作そのままだ。流れるのは「ブロッサム・フェル」。花は、散った。甘美なるもの(ブロッサム)の墜落(フェル)。だがしかし、そこには、甘美や墜落に付随するいかなる悲愴感も、感傷も、ロマンティシズムもない。歌と映像は、お互いを増幅するように見えるが、どこかでずれており、実はお互いに裏切っているように感じる。
 
 この殺伐とした感触がアメリカ映画特有の題材に負っている、ということは一応もっともだ。1958年にネブラスカとワイオミングで11人の人命を奪った殺人カップル、チャールズ・スタークウェザーとキャリル・アン・フガート。『地獄の逃避行』がこの血塗られた恋人たちをモデルにしていることはよく知られている。またそれは『暗黒街の弾痕』(フリッツ・ラング、37)から『夜の人々』(ニコラス・レイ、48)を経て『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン、67)に至る、逃避行映画に連なるものともいえる。これは、アメリカという母胎から生み落とされた後胤なのだ。

 だが、そうしたアメリカ(映画)への血縁性は見せかけ、もっといえば口実のように思える。そこには映画史的なものに連なろうとする媚態も、それに対して反抗しようというする挑発も見られない。そもそも、そうした外的な意識そのものが稀薄なのである。それはおそらく、キットがジェームズ・ディーンに似ている言われながら、徹底して無頓着であるという態度にも象徴されよう。最もアメリカ的で、最も映画的、「ブロッサム・フェル」を体現するイコンを中心に置き、あっけらかんと知らん顔をしてみせる。キットはアメリカ映画の中心であり外部である。中心/外部を表裏一体で具有するマーティン・シーンのパーソナリティは『地獄の黙示録』(フランシス・フォード・コッポラ、79)でさらに深化する。
 
 徹底してアメリカの内部で、かつ徹底してアメリカの外部。そんなクラインの壺めいた通底ぶりを仮にマリック的なものとするなら、『地獄の逃避行』にはその萌芽がすでにしっかりとある。マリックとは、最もアメリカ的でありつつ最もアメリカ的でない映画作家という矛盾した存在だ。最も映画的でありつつ、もっとも映画的でない映像作家、と言い直してもいい。矛盾、と書いたが、マリックにとってそれがどこまで矛盾たりえているのか。
 
 ミニマムなもの・内宇宙的なものが、マキシマムなもの・外宇宙的なものへとくるりと反転する、そんなマリックのマジック。『天国の日々』(78)における季節労働者の卑俗な悲恋は荘厳の高みに到達し、『シン・レッド・ライン』(98)や『ニュー・ワールド』(05)といった壮大な世界史は、きわめて一個人の卑小な生へと還元されていく。こうした極小と極大の反転運動は、『ツリー・オブ・ライフ』(11)によって行きつくところまで行ってしまったかに見える。そのことを安易に批判することは避けなければならない。

 こうしたマリックの作風に「『謙虚さ』の欠如」(蓮實重彦)などと人格批判めいた非難を寄越したくなる気持ちも分からぬではないけれど、どこか的外れではないか。マリックの映画は傲慢なのではなく―人格評的な語彙を敢えて使うとすれば――「天然」なのではないか。「天然」に「謙虚」も「傲慢」もへったくれもない。「天然」とはつまり自在な振れ幅である。「天然」は、滑稽さと恐怖、善と悪、崇高と卑俗といった対立を無化する。

 そう、キットもまた凶悪でも純真でもなく「天然」なのではないか。先のダンスシーンに戻ろう。そこでは、徹底的に空虚でありながら、きわめて濃密な時間が流れていた。悲愴感も感傷もロマンティシズムもない、その、ないないづくし持続にわけも分からぬまま耐えるうち、マリックはかつて経験したことのない恍惚へと見る者を誘うのである。

※1 Lloyd Michaels, Terrence Malick, University of Illinois Press, 2009, pp. 11-12.
※2 スタンリー・カヴェル『眼に映る世界 映画の存在論についての考察』(石原陽一郎訳)法政大学出版局、2012年、原註 (26)頁。


「地獄の逃避行」
[WOWOWシネマ]12月10日(月)よる9:00
[WOWOWシネマ]1月8日(火)午前11:15



「地獄の逃避行」© Warner Bros. Entertainment Inc. 


<「東京フィルメックス」前審査委員長が捧げる、映画への愛>

 102021_001_key_a.jpg『CUT』は映画についての映画である。映画を愛することについての映画であり、映画によって傷つくことの映画である。なんとナルシスティックな話だろう。映画を愛する監督が、映画マニアの俳優を分身として、映画愛を切々と訴えるインディペンデント映画。映画愛に窒息しそうだ......と見る前から辟易する人も多いかもしれない。

 物語はこれ以上ないほどにシンプルだ。西島秀俊演じる秀二は兄から金を借りて映画を作っている。映画は売れないものの、映画の力を信じる秀二の心はくじけない。だが、ある日、秀二はその兄が借金を残して死んだと知らされる。兄はヤクザの金融から金を借り、トラブルを起こしていたのである。まったく事情を知らなかった秀二は自分を責めるが、ヤクザからは兄が残した借金を返すように迫られる。1200万円もの金を返す手段として、秀二が思いついたのは殴られ屋だった。ヤクザから一発一万円でパンチを受けて返すのだ。殴られるたびに、秀二は自分の愛する映画のことを思う。映画への愛によって、秀二は痛みを乗り越えるのだ。
 鼻持ちならない映画愛の香りがする。シネフィルの自涜の香りが。映画好きの自己愛を心地よくくすぐり慰撫するだけの物語なのではなかろうか?

 本作の監督・脚本はアミール・ナデリ。日本での知名度こそ劣るが、イランではアッバス・キアロスタミとも比肩される巨匠である。ナント三大陸映画祭グランプリの『駆ける少年』などで名を上げたナデリは、その後アメリカに拠点を移し、精力的に映画製作を続けている。映画を愛して世界中を駆けてゆくナデリは秀二そのものだ。ならば、これは彼の苦闘を描いた寓話だというわけだ。秀二が愛し、殴られながら唱える映画はいずれもナデリが愛する映画タイトルだ。
 これだけの要素が重なっていれば、醜悪な自己愛になっても不思議ではない。そうなっていないのは、ナデリの映画愛がほとんど狂気に近いほど激しいからである。
 西島秀俊は映画の痛みを文字通り体に受ける。尋常ではないテンションで怒鳴り、叫ぶ。「映画愛」を文字通り肉体に変換して見せるのだ。西島の演技を見ていると、映画を愛するのは祝福ではなく、むしろ呪いなのだと思わされる。映画に取り憑かれてしまったら、いかに殴られようとも逃れることはできない。ひたすら映画の神に祈りを捧げることしかできないのだ。

 sub1.jpgクライマックスで、秀二は百本の映画のタイトルを読み上げ、そのあいだパンチを受け続けるという挑戦を試みる。完遂できれば残りの借金はすべてなくなるという賭けだ。百本の映画はもちろんナデリが選んだものである。ナデリによる世界映画史というわけだが、このリストを見るだけでいろいろと興味深い。ちなみに日本映画は『ビルマの竪琴』(市川崑)、『怪談』(小林正樹)、『HANA-BI』(北野武)、『親』(清水宏)、『書を捨てよ町へ出よう』(寺山修司)、『少年』(大島渚)、『浮雲』(成瀬巳喜男)、『楢山節考』(今村昌平)、『裸の島』(新藤兼人)、『砂の女』(勅使河原宏)、『魚影の群れ』(相米慎二)、『羅生門』(黒澤明)、『東京物語』(小津安二郎)、『晩春』(小津安二郎)、『蜘蛛巣城』(黒澤明)、『雨月物語』(溝口健二)の16本が挙がっている。日本人でもこれだけ挙げることはまずないだろう。

 この中でもっともナデリの趣味が濃厚なのは『親』や『少年』かもしれない。ナデリは子役の映画を高く評価する傾向があるのだ。たとえばトリュフォーなら『野性の少年』だし、ヘクトール・バベンコの『ピショット』などというタイトルも挙がっている。ケン・ローチの『ケス』が入っていたことには驚かされた。この手のリストにはあまり入らないタイトルだからだ(ちなみにイギリスでは国民的映画作家と言ってもいいくらいのケン・ローチだが、シネフィルから好かれるタイプの監督ではない)。ナデリは『ケス』からは多くを学んだという。キアロスタミとともに児童映画を作ろうとしているときに『ケス』に出会い、子役の演技の素晴らしさに深く影響を受けたのだ。だからナデリは『駆ける少年』を作り、キアロスタミは『友だちのうちはどこ?』を作ることになったのだ。その二本の映画は『ケス』を父親とする異母兄弟なのだ。

 ところで『CUT』は映画愛に関する寓話である。わざわざ借金を取り立てるかわりにお金を払ってやるようなヤクザがいるはずがないのだし、殴られるのは信仰の狂気を表現しているだけのことだ。だが、ナデリというのは本当に映画のために殴られてしまう人間なのである。革命前、イランの映画界は組合に独占されており、組合員にならないかぎり映画を作ることはできなかった。映画を愛しながらもそこに手が届かないというのは、ナデリにとっては我慢ならない状況だった。そこでナデリは毎晩組合に出かけては、その前で愛する映画のタイトルを唱えつづけた。警備員が来て、殴られて追われようとも、けっしてくじけずに。そう、『CUT』はこれ以上ないほどリアルなリアリズム映画なのである。


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「第13回東京フィルメックス」

毎年独創的な作品を、アジアを中心とした世界から集めている国際映画祭、「東京フィルメックス」。
今年は、コンペティション部門に俳優・映画監督として活躍するSABU氏を審査委員長に迎えて開催。
特集上映は『木下惠介生誕100年祭』『イスラエル映画傑作選』などを上映。

日程:11月23日(金)~12月2日(日)
会場:有楽町朝日ホール、東劇、TOHOシネマズ日劇

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東京フィルメックス×アニエスベー コラボ・オリジナルバッグを5名様にプレゼント!!
応募締切:12月2日(日)24:00

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「CUT」
[WOWOWシネマ]1月19日(土)よる11:00
[WOWOWシネマ]1月29日(火)午後2:45





「CUT」©CUT LLC 2011


<Stop !  In the Name of Love>

 101587_001_key_a.jpg映画史上もっともユニークで傑出した異才コンビの1つとして、今日もなお燦然とした光を放ち続けるマイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガー。後者が脚本を手がけ、前者が単独で監督を務めた『スパイ』(1939)で初めてコンビを組んで以来、彼らの実り豊かな協働作業が始まり、1943年にアーチャーズ・プロ(同心円状の的の真ん中に矢が突き刺さる冒頭のロゴで映画ファンにはお馴染み)を共同で設立してからは、2人連名の製作・監督・脚本クレジットにより(ただし実質的には、主にプレスバーガーが原案・脚本、パウエルが監督という役割分担)、幾多の名作が世に送り出された。

 彼らの代表作はというと、やはりまずは鮮烈で艶やかな色彩表現の極致というべきテクニカラー映画の傑作群の名が挙がることだろう。2011年、洋雑誌の「Time Out London」が集計したイギリス映画のオールタイム・ベスト100では、『赤い靴』(1948)が第5位、『天国への階段』(1946)が第6位、『老兵は死なず』(1943)が第14位、『黒水仙』(1947)が第16位に選ばれ、モノクロで撮られた『カンタベリー物語』(1944)も第17位に選出されている。同じくモノクロ映画のこの『渦巻』(1945)は、さらにその後塵を拝して第26位となったが、しかし決して前記の諸作に勝るとも劣らない珠玉の愛すべき逸品だ(それにしても、同一の映画作家でこれだけ数多くの作品を上位にランクインさせているのは彼らだけで―さらには、パウエルの単独監督によるあの呪われた傑作『血を吸うカメラ』(1960)も第29位につけている―実に大したものだ。彼らの作品が、同時代的にはむしろすんなり受け入れられることの方が少なかったことを考えると、なおさら驚かざるを得ない)。

 さて、「私は自分の行く先を知っている!」という原題を持つ本作は、映画のヒロインが、まだほんの赤ん坊の頃からいかにそのことをよく心得、自分の目的へ向かってまっしぐらに突き進んで生きてきたかを、1歳、5歳、12歳...と次第に成長する彼女の姿を順繰りにテンポよく映し出すところから軽快にスタートする。そして、ウェンディ・ヒラー扮する25歳の現在のヒロインに切り替わったところで、彼女は父親に向かってだしぬけに「私これから結婚します!」と宣言すると、すっかり驚く父親を尻目に、結婚相手の待つスコットランド西方のヘブリディーズ諸島へ向けてただちに旅立つことになるのだ。

 マンチェスターの駅から彼女が夜行列車に乗り込み、「大丈夫。私、自分の行く先はちゃんと知っているわ!」と言って心配顔の父親に別れを告げると、走り出す列車の車輪の映像にかぶさって、先のフレーズを歌う女声コーラスと共に軽やかな音楽が始まり、列車が加速するにつれて音楽のテンポも速まっていく。そして期待と不安に胸を高鳴らせつつ眠りに落ちたヒラーは、この先自分を待ち構えている結婚式の様子を夢見ることになる。実は彼女の結婚相手というのは、自分の勤め先の化学工業の会社社長で、イギリス有数の大金持ちたる年配の男性。ただし彼の姿は劇中には登場せず、彼女が夢見る不思議なこの場面では、個人ではなく会社そのものを象徴する存在として工場の風景めいたシュールな映像が映し出され、さらに「あなたは彼女を妻として娶りますか?」という司祭の問いに答えて高らかな祝砲を鳴らすのは、なんと列車の汽笛といった具合なのだ。

 この何とも愉快で楽しく、かつスピーディで狂騒的な物語のオープニングは、ついハワード・ホークスやプレストン・スタージェスなどの痛快無類の喜劇世界を想起せずにはいられない。はたして当時のイギリス映画界でも同じようなブームがあったのか、寡聞にして知らないが、この『渦巻』はおそらく、ハリウッド製スクリューボール・コメディに対する、パウエル&プレスバーガー流の返歌であったに違いない。そして、このジャンル特有のゲームの規則に従って、当初取り決められていたヒラーの婚約には、大きな邪魔が立ちはだかることになる。せっかく列車や船、車を乗り継いで目的地の島の一歩手前まで辿り着いたところで、悪天候に阻まれて船で島へ渡航することが叶わず、そこで彼女はしばらくお預けを食うことになるのだ。

 CFD0354-IKnow-S002.jpgこのあたりから、映画の調子もそれまでの性急なモードから多少トーンダウンし、スコットランド独特の文化と伝統、そして自然の営みと一体になってその地で暮らす人々のいきいきとした生活や風物描写が、次第に物語の前面にせり出すようになる(そうした地方色を重視する姿勢は、パウエル&プレスバーガーの前作『カンタベリー物語』と同様のもの。また、それ以前にパウエルが単独で監督を手がけた『The Edge of the World』(1937)においても、題名通り"世界の端"にあるような絶海の孤島を舞台に、そこに生きる人々の暮らしを、物語の主筋たる男女のメロドラマと交錯させながら、迫真のセミドキュメンタリー・タッチで描いていて、同作はこの『渦巻』の前身にあたるものといえるだろう)。

 そしてヒラーは、この地で新たな別の男性(演じるのは、先に『老兵は死なず』でも主役を務めたロジャー・リヴセイ)と出会うことになる。お互いに心惹かれ合いつつも、しかしヒラーは、彼への思いをいっそきっぱり断ち切って当初の目的をあくまで貫くべく、相変わらずの悪天候の下、大金で若い漁師を雇って荒波の中を小船で沖合へと乗り出し、婚約者の待つ島へ向かおうとする。リヴセイは何とかその無謀な試みを止めようとするも彼女の頑強な抵抗にあい、いったんは説得を諦めて勝手にしろと突き放したものの、ここが運命の分かれ道と思い直し、やはり小船に乗り込んで決死の船出に同行する。しかし彼らの前には、疾風怒涛の嵐や高波ばかりでなく、その海特有の難所たる渦巻が待ち受けていた...というハラハラドキドキの場面の連続は、ぜひ見てのお楽しみだ。

 ところで、それまでひたすら自らの目的に向かって一路邁進しながら生きてきた本作のヒロインが、恋の渦巻、はたまた海中の渦巻に直面して自らの方向性を見失い、人生の大きな進路変更を迫られるように、実はこの『渦巻』という映画自体、当時の映画産業や現実社会が歴史の一大転換期にさしかかる中で、パウエル&プレスバーガーが、従来の自分たちの路線を見つめ直し、新たな映画作りの可能性と方向性を模索しながら生み落としたものだった。それというのも、本作が構想・製作されたのは、第2次世界大戦末期のこと。同大戦の開戦前夜に撮られた『スパイ』を皮切りに、以後長らく戦時色の濃いプロパガンダ映画を量産してきた彼らも、いよいよ戦争の終わりが次第に近づくなか、来たるべき戦後社会を見据えた、より自由で開かれた映画を作ることがようやく可能になったのだった(映画は1944年秋に撮影され、終戦をはさんで、イギリス本国では1945年12月に一般公開された)。

 元来は本作よりも先に作る予定だったものの、大作でコストがかかるうえ、テクニカラーの使用も制限されるという理由から後回しにされた次回作の『天国への階段』において、彼岸と此岸の間で引き裂かれる男女の恋と運命という本作のテーマは、天国と地上という宇宙的な規模にまで拡大されて反復されるのをはじめ、パウエル&プレスバーガーはその後もなお、独創的なアイディアと大胆な視覚的実験を果敢に織り交ぜながら、映画芸術のさらなる高みをめざして(『赤い靴』の芸術至上主義者アントン・ウォルブルックのように!)、恐れを知らず、どこまでも我が道を突き進んでいくのである。


「渦巻」
[WOWOWシネマ][字]11月6日(火)よる11:15
[WOWOWシネマ][字]12月19日(水)午前7:00





「渦巻」©Carlton Film Distributors Limited 1945



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