ダン・オバノンの死を悼み、「エイリアン」を観る(添野知生)

2010.02.02

alien_directors cut.jpg 1979年のアカデミー賞で視覚効果賞を受賞した『エイリアン』。たしかに視覚的なインパクトは絶大だったが、この映画が30年たった今でも、SF・ホラー映画史に残る傑作として古びていないのは、そこに強力な物語があったためでもある。
 そんな『エイリアン』の物語は、追い詰められたひとりのSFファンの、孤独な夢想から生まれた。彼の名前はダン・オバノン。29歳、無職、無一文で、住む家も車もなく、友人の家のソファで寝起きし、SF映画の脚本を売ることで、そんな生活から抜け出すことを夢見ていた......。

 1946年生まれのダン・オバノンは、南カリフォルニア大学の映画学部でジョン・カーペンターと出会って意気投合。カーペンターの卒業制作から始まった(のちに商業映画に格上げされた)宇宙SF『ダーク・スター』(1974年)で、脚本を書き、視覚効果を一手に手がけ、重要な役で出演する八面六臂の活躍を見せた。
 卒業後は、『エル・トポ』のカルト監督アレハンドロ・ホドロフスキーに呼ばれてパリへ。ホドロフスキーはそこでフランク・ハーバートの人気SF小説『デューン/砂の惑星』の映画化を準備中だった。若きダン・オバノンは『ダーク・スター』の仕事を評価され、特撮監督に抜擢される。はりきった彼は、イギリスの気鋭のSFイラストレーター、クリス・フォスや、ホドロフスキーから紹介されたスイスのシュールレアリスム画家H・R・ギーガーを起用し、コンセプト・デザインを開始する。
 だが6カ月後、『デューン/砂の惑星』の映画化は資金難のため頓挫。職を失ったオバノンは失意のうちにロサンゼルスに戻り、尾羽打ち枯らして友人ロナルド・シャセットの家に身を寄せる。

 演劇出身のシャセットは、当時のハリウッドでは誰も見向きもしなかったSF作家フィリップ・K・ディックから、短篇「追憶売ります」の映画化権を買い、共同で脚本を書いてくれるSFファンを探すうちにダン・オバノンと知り合った(ずっとあとになってから、この共作は『トータル・リコール』として実現する)。
 オバノンは、シャセット夫妻の家のソファで寝起きしながら、窮余の一策としてオリジナルのSF脚本を書き始める。コメディのつもりで書いた『ダーク・スター』が観客に笑ってもらえなかった、という悔しさがオバノンには強く、今度は同じ話――宇宙船内に宇宙怪物が現れる話を、シリアスなホラーとして書くことにする。
 オバノンが想定していたのは、一つのセットのなかで完結する『ダーク・スター』のような低予算映画。だからこそいちばん重要なのは、宇宙怪物の生態やライフサイクルで、これはひとりでじっくり考えるしかなかった。
 また、「外来の、異質なもの」を意味する「エイリアン」という単語を、思わせぶりな題名として採用したのもダン・オバノン。今日、エイリアンというと、凶暴な宇宙怪物の姿が浮かぶようになってしまったのは、オバノンのせいということになる。

 『エイリアン』の脚本には1年かかったというが、行き詰まったときには、ロナルド・シャセットとの会話が助けになった。オバノンが何年も前に書いた『グレムリンズ』という脚本のことを思い出させてくれたのもシャセットだったという。空の悪魔グレムリンが爆撃機B-17を襲い、尾部銃座の機銃手を殺して機内に侵入。最後尾から順に乗組員を殺しながら操縦席に向かってくるという物語で、それが『エイリアン』の中盤を支えるアイデアになった。

 もう一つ、銃器を使っても怪物を倒せない理由を考えあぐねていたときに、助け船を出してくれたのが、年上の友人だったロン・コッブ。風刺マンガ家として名高く(ジェファソン・エアプレイン『アフター・ベイシング・アット・バクスターズ』の複葉機のイラストはコッブのもの)、すでに本も出していたコッブだが、ダン・オバノンとは旧知のSF仲間で、『ダーク・スター』のときも一緒に働いた。「もしそいつの血液が強力な酸だったら?」というコッブの名案が、そのまま脚本に使われることになる。

 『エイリアン』の物語のルーツ探しについては、のちに世界中のファンがさまざまな自説を唱えることになるが、ダン・オバノン自身は、2003年発表のエッセイ(Something Perfectly Disgusting)で、自分の考えをていねいに明かしている。ホラー作家H・P・ラヴクラフトの影響が強いこと、映画では『遊星よりの物体X』と『禁断の惑星』が念頭にあったこと、50年代のSFホラー・コミック「ウィアード・サイエンス」の影響が色濃いこと。さらに、誰も指摘しなかった重要なルーツとして、SF作家クリフォード・D・シマックの短篇「廃棄場(Junkyard)」(ギャラクシー誌1953年10月号発表・未訳)を挙げている。

 この発言に驚き、あわてて問題の「廃棄場」を読んでみたのだが、なるほど、これは『エイリアン』によく似ている。未知の惑星に降り立った調査隊。科学者というよりは船乗りのような男たち。地表を覆う異星文明の奇妙な遺物。謎の塔。恐るべき結末にも共通点があり、SFファンのダン・オバノンがこの感触を忘れられずに、自作で再現しようとしたことがよくわかる。今後『エイリアン』について考えるとき、この短篇は第一級の資料となるだろう。

 『エイリアン』の脚本は1976年8月に完成したが、そのころにはもうダン・オバノンは、ロナルド・シャセットの家を出て独立していた。ジョージ・ルーカスが監督する、いまだ海の物とも山の物ともつかない、新作宇宙SFの特撮を手伝って報酬を得たのだ。
 『エイリアン』の脚本は、シャセットの売り込みが功を奏して、ウォルター・ヒルの製作プロダクションにオプション(優先的に検討する権利)が売れた。収入の1万5千ドルは、シャセットが1万ドル、オバノンが5千ドルで山分けしたという。

 このあとのことは比較的よく知られているはずだ。
 ウォルター・ヒルは脚本を改稿し、宇宙船の乗組員を一人増やして7人とした。追加されたアッシュは極めて重要なキャラクターだったが、オバノンはその意義を認めつつも、のちのちまでヒルを赦さなかった。
 ハリウッドのどこのスタジオもこの企画を拒絶したが、翌年の春『スター・ウォーズ』が封切られて、すべてが変わった。とりわけ20世紀フォックス社は、すぐにでも次の宇宙SF映画を作りたがった。そのとき、代表のアラン・ラッド・ジュニアのデスクの上にあった宇宙SFの脚本は『エイリアン』だけだった。
 製作規模が大きくなったため、ダン・オバノンは自分で監督することをあきらめた。ウォルター・ヒル、ロバート・アルドリッチ、ピーター・イエーツ、ジャック・クレイトンらが監督を断り、最後に快諾したのが、カンヌ映画祭で新人賞を受賞したばかりの、CF出身のイギリス人リドリー・スコットだった。
 ロンドンに帰ったスコットは、3週間で一気に絵コンテを描き上げた。フランスのコミック作家メビウスの影響を強く感じさせる、完成度の高い、そのままコミックスとして出版できそうな絵コンテで、これを見たスタジオ側は製作費の増額を決める。3百万ドルの低予算映画としてスタートした企画は、その4倍近い、製作費1千百万ドルの大作に変わっていた。

 ダン・オバノンはリドリー・スコットの才能を認め、スコットもSFマニアとしてのオバノンに認められるようとした。オバノンはデザイン・コンサルタントとして現場に入り、『デューン』時代の仲間であるクリス・フォスとH・R・ギーガー、旧友ロン・コッブを企画に呼び寄せた。
 ギーガーの第一画集『ネクロノミコン』を見せられたリドリー・スコットは、1枚のリトグラフに登場する怪物に惚れ込み、そのデザインをそのまま自分の映画のエイリアンに採用する(唯一の変更点は眼をなくしたこと)。ロンドン郊外の撮影所にやって来たギーガーは、さまざまな追加デザインを引き受け、そればかりか現場に入って、自ら美術セットや着ぐるみの制作を手がけた。ギーガーが成体エイリアンの制作にかかりきりだったため、フェイスハガーの制作は、ロン・コッブとロナルド・シャセットが引き受けた。

 映画が完成し、1979年5月に封切られたとき、ダン・オバノンは、観客の反応が怖くて劇場に行かれず、車でロサンゼルス中を走り回っていた。夜になってようやく決心がつき、ロナルド・シャセットの待つ劇場に向かった。満場の観客が震え上がっているなか、オバノンひとりが感動で泣いていたという。
「目に涙があふれ、頬を流れ落ちた。私はただそこに座って映画を見ていた」

 ダン・オバノンは、昨年、2009年12月17日に、63歳で亡くなった。30年近くクローン病(炎症性腸疾患)を患い、近年は手術をくりかえし、長く闘病生活を送っていたという。最初に発症したのは『ダーク・スター』のころだというから、映画作家としてのキャリアの最初から、ままならない生活を送ってきたことになる。
 公式サイトの遺族の挨拶によれば、病床で最後に目を通していたのは、ロバート・クラムの作品集と、コリイ・ドクトロウの長篇SF『Little Brother』。愛着のあるコミックスと、最新のSFに、最後まで関心を持ち続けた姿に、深い感動を覚えずにはいられない。


エイリアン/ディレクターズ・カット
2月3日(水)午後5:05 [191ch][HV][5.1][字]



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