【特別寄稿 第2弾】怪獣少年が観た『生きものの記録』(町山智浩)

2012.08.16

 001969_001_key_a1.jpg自分の世代(1962年生まれ)が、日本映画と最初に出会ったのは、ゴジラ映画だったはずだ。筆者は、池袋や浅草の名画座で東宝の特撮映画一挙上映を追ううちに、黒澤明一挙上映へと手を伸ばした。だから、映画の観方がものすごく歪んでいる。
 
 たとえば「音響・三繩一郎」みたいにゴジラ映画でおなじみのスタッフ名や、大村千吉などの東宝の大部屋俳優の顔を見つけて喜んだりする。怪獣少年にとっては、志村喬はどんな役を演じても古生物学者の山根博士であり、根岸明美は『キングコング対ゴジラ』でヤシの実ブラで踊っていたファロ島のお姉さんであり続ける。
 
 だから『生きものの記録』(55年)を観た時は、もうゴジラ映画と印象がごっちゃになってしょうがなかった。何しろオープニングクレジットの音楽からして、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』のオープニングと同じテルミンみたいなホワホワ音なんだから。
 
 志村喬は歯医者で、家庭裁判所の調停も手伝っている。今回、調停することになったのは、三船敏郎演じる鋳物工場の経営者。三船は当時35歳で70過ぎの老人を演じている。彼は資産家だが、勝手に財産を処分して地下シェルターを建設しようとしたので、一緒に工場で働く息子たちから準禁治産者にする申し立てを提出されていた。どうして地下シェルターを作ろうとしたかというと、いつ起こるかわからない核戦争に備えるためだという。
 
 北半球にいる限り、放射能からは逃れられないと知った三船はブラジルに移住しようとする。三船が根岸明美の家に行って赤ん坊を抱くシーンがあるのだが、中学の時に初めて観た時は二人の関係がわからなかった。根岸は三船の30くらい年の離れた愛人で、赤ん坊は三船の子どもという設定だった。
 
 三船は杖をついてはいるが、基本的にいつもの三船で、「うぉーっ」と獣のように吠えて、自分の息子をボコボコに殴ったりする。するとだんだん、怪獣少年である自分の目には、三船がゴジラに見えてきたのだ。
 
 1954年11月公開の『ゴジラ』が当時の日本人にとって衝撃的だったのは、その半年前に起こった第五福竜丸事件と関係していると言われる。マグロ漁船、第五福竜丸は、米軍がビキニ環礁で行った核実験の死の灰を浴びて、乗組員が死亡した。広島・長崎の原爆投下から十年も経たないうちに日本人がまた核兵器の犠牲になり、しかも今度は原爆よりも強力な水爆だという。その恐怖から、この『生きものの記録』が生まれている。盟友本多猪四郎の『ゴジラ』を黒澤明がまるで意識しなかったはずはないだろう。
 
 核への恐怖から、三船は徐々に暴走し始める。家族も家裁の調停員たちも、三船はノイローゼというかパラノイアだと確信していく。今なら「あのジイさんは放射脳だな」ってな感じか。
 
 だが、唯一、志村喬だけが、三船に共感し始める。世界を滅亡させるだけの核兵器が現実に存在しているのだから、三船のように怒り、暴れてむしろ当然ではないか。志村喬の三船への共感は、『ゴジラ』の山根博士が、水爆によって生み出され、文明への怒りをぶつけて暴れるゴジラに、複雑な共感を寄せていたことと重なってくる。
 
 しかし三船の家族にとっては、見えない核の恐怖よりも、工場が大切だ。豊かな産業、豊かな経済が。そこで、三船は自ら工場に火をつけて全焼させてしまう。まだ煙がくすぶっている焼跡を、背中を丸めてのそのそと歩く三船は、東京を焼き尽くして原爆を思い出せようとしたゴジラそのものだった。

 『生きものの記録』が興行的に大失敗した1955年、日本では原子力基本法が成立し、原子力発電所計画が始まった。ゴジラの、三船の叫びに耳を傾ける者は少なかったのだが、黒澤明はその後も『八月の狂詩曲』で原爆を描き、チェルノブイリ事故の4年後に作られた『夢』では、原子力発電所の事故で日本が壊滅する姿を描いた。

 『生きものの記録』では、臆病だと言われた三船がこう反論する。自分は悲劇を避けるために何かをしようとしている。現実から目をそむけて、何もしないお前たちのほうが臆病者だ、と。


<オンエア一覧>
「生きものの記録」
[WOWOWシネマ]8月29日(水)よる9:00

史上初!黒澤明監督全30作品ハイビジョン一挙放送
[WOWOWシネマ]8月12(日)~9月27日(木)

詳しくは番組オフィシャルサイト



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