<ハロー、プロフェッショナル ― 最高の相棒=ホークス映画と出会い直すために>

◆ジャンルを超越した娯楽映画の達人

 痛快無類の面白さとスリルに満ちあふれた極上の娯楽映画を次々と世に送り出し、ハリウッドの黄金時代に君臨した神話的巨匠、ハワード・ホークス。さまざまな映画ジャンルの作品を幅広く手掛け、なおかつ、各ジャンルを代表する傑作・名作を次々と生み出した天才的映画作家となると、やはりこのホークスと日本映画界の名匠マキノ雅広の2人だろう。
 鮮烈この上ないギャング映画の決定版「暗黒街の顔役」(1932)。美男美女たちが疾風怒とう、傍若無人の狂乱騒ぎを繰り広げる、「赤ちゃん教育」(1938)「ヒズ・ガール・フライデー」(1940)「教授と美女」(1941)などの抱腹絶倒のスクリューボール・コメディー。スリル満点のハードボイルド映画、「脱出」(1944)と「三つ数えろ」(1946)。西部劇の精髄と醍醐味(だいごみ)が全編に詰まった、「赤い河」(1948)や「リオ・ブラボー」(1959)に始まる円熟の3部作。さらには、大学で機械工学を専攻し、スピードとスリルに"魅せ"られてカーレーサーや飛行士も務めたホークス自身の実体験を踏まえて生み出されたカーレース映画や航空映画、そしてまた、刑務所映画、戦争映画、ミュージカル・コメディー、SF、古代史劇、狩猟映画......といった具合に、ホークスが40年以上にも及ぶ長い監督キャリアの中で多岐に渡って手を染めた映画ジャンルは、まだまだ列挙することができる。
 その多彩な作品群のどれ一つをとってみても、ひとたびその魅力的な世界に触れたなら、たちまちその面白さにグイッと惹(ひ)きこまれて、思わずやみつきになることは請け合いだ。語り口や映像スタイルは、下手に気取ることなく、簡潔でスピーディー、明瞭(めいりょう)そのもの。それでいて一場面ごとに創意工夫に満ちた演出が施され、観客を絶えざる新鮮な驚きと愉悦へといざなってくれる。さらには、ケイリー・グラント、ゲイリー・クーパー、ハンフリー・ボガート、ジョン・ウェインら、そうそうたる大スターたちから、ウォルター・ブレナンを筆頭とする脇役陣の一人一人に至るまで、その個性と魅力を存分に輝かせる生き生きとしたキャラクター造形。そして、一度見たら脳裏に焼き付いて忘れられなくなる、ルイーズ・ブルックスやバーバラ・スタンウィック、ローレン・バコール、アンジー・ディキンソンなど、セクシーな魅力に満ちた極めつきの"ホークス的美女"たち......。
 その作品を初めて観る人は無論のこと、すでに以前目にしている人が改めて観返しても、観直すたびに新たな感動と興奮、発見をもたらしてくれる逸品ぞろい。しかも同じ映画を繰り返し観たい気にさせるばかりでなく、別のホークス映画も次から次へとハシゴしたくなってしまうのだから、何とも不思議だ。そして、実はまさにここに、ホークス映画の尽きせぬ魅力の秘密を解く鍵が潜んでいる。

◆作家主義の頂点に立つ至高の映画作家

 さて、前節で述べたように、ホークスが生み出した数々の映画は、ジャンルや題材が多岐に渡っていて一見バラバラのようだが、実はよく見比べてみると、どの作品にもある独自の論理が貫かれ、その本質的世界は驚くほどに似通っている。そのことをいち早く鋭く見抜いて広く世に知らしめたのは、1950年代、ジャック・リヴェットやフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールら、「カイエ・デュ・シネマ」誌に集い、後にヌーヴェル・ヴァーグの重要監督となるフランスの若き映画批評家たちだった。
 彼らは、その当時にあってもなお、ハリウッドの娯楽映画の単なる職人監督と軽んじられ、真剣な議論の対象になるとは到底思われていなかった2人の傑出した存在、ホークスとアルフレッド・ヒッチコックを、とりわけ真の偉大な芸術家であり、ゆるぎない個性と才能を持つ特権的な映画作家とみなして、熱烈な称賛と擁護論を展開。リヴェットは「明白さとは、ホークスの天才の目印である」とずばり喝破して、ホークス再評価の先鞭をつける革新的な映画作家論を発表し、ゴダールやトリュフォーらも相次いで、ホークスの偉大さを論じたてた。ヒッチコック=ホークス主義を標榜する彼らのラディカルで革新的な批評が、名高い作家主義として定着し、映画批評に不可逆的な進展をもたらしたのは、すでによく知られている通りだ。作家主義的な映画批評が誕生するにあたって、そこにフランスの若き映画狂たちの介在が必要だったことは事実だが、と同時に、そこにホークスとヒッチコックというまぎれもない確かな生き証人があったからこそ、その実現が可能になったということも言えるだろう。
 一見雑多でばらばらな題材や通俗的な物語を超えてなお、各作品を通底して流れる作者固有の世界観と論理、反復的な主題とその豊かな変奏、そしてさまざまな細部同士がいたるところで連携・共鳴し、めくるめく無限の乱反射を起こす途方もない世界。それが、今なおくみ尽くすことのできない多面的な魅力をたえたホークスの映画世界だ。そしてまた、生粋のプロのエンターテイナーであったホークスを、おなじみのテーマをそのときどきのムードに合わせて自在にアレンジし、アドリブも随時付け加えながら、陽気なジャム・セッションを繰り広げる、あのデューク・エリントンやベニー・グッドマンにも比すべき天才バンド・リーダーに例えることも可能かもしれない。そうしたホークス映画のユニークな魅力は、ヌーヴェル・ヴァーグの映画批評以後、数多くの論者たちによってさまざまな視点から読み解かれてきたわけだが、ここではまず、ホークス的な映画世界の原型が一つの完成形に達したと自他共に認める傑作「コンドル」(1939)を手がかりに、そのミクロコスモスを構成する基本的な人物・状況設定とそのメカニズムをざっと紹介した上で、ほかのホークス映画にも目を向けてさまざまな共通点を浮き彫りにし、ホークス映画の魅力の秘密に迫ってみたいと思う。

◆「コンドル」 ― ホークス映画の基本形

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 「コンドル」の物語の舞台となるのは、南米の地にある小さな飛行場。悪天候の中、アンデス山脈の高峰をぬって日夜危険なフライト業務に勤しむパイロットたちの日常は、常に死と隣り合わせの綱渡りの連続。そのプロとしての腕前の優劣が、文字通り、生死の境を分けることになる。とはいえ、そうした厳しい状況が明らかになるのは、この地に流れてきたジーン・アーサー扮するヒロインが、グラントをボスとするこの命知らずの男たちの集団にふと足を踏み入れてから、しばらく後のこと。彼女は、知り合ったばかりのパイロットが濃霧の中で飛行機の操縦を誤って、墜落死する事故の現場に立ち会うハメとなるのだ。けれども、たった今しがた仲間の一人が命を落としたばかりだというのに、まるでそんな事故はおろか、「ジョーって誰だ?」と、死んだ仲間の存在自体すらあえて否定して平然と振る舞う、グラントたちの非情なありさまを見て、アーサーは思わず憤然とし、一度は彼らに背を向けてその場を立ち去ることになる。
 けれども、非情でシニカルですらある男たちの態度の背後に、彼らの日常を取り巻く死の影と、運命論者的な厳しくもさめた人生哲学があることを学んだ彼女は、次第に冷静さを取り戻し、もとの場に引き返して彼らと再度向き合う。そして、死んだ仲間の通夜を彼らなりに執り行おうと、ピアノの前に座るグラントを中心に、いざ陽気なジャム・セッションが始まろうとしたところで、アーサーは、グラントの弾くまずいピアノの音色に顔をしかめて彼の役を奪い取ると、自分の本業であるショーガールとしての一流のピアノの腕前と歌声を存分に披露して、満場の拍手喝采を浴びるのだ。そして、先ほどとはすっかり別人の顔を見せるようになった彼女に思わずほれ直したグラントは、「ハロー、プロフェッショナル」と改めてあいさつの言葉を送り、彼女も自分たちと同等の資格を持つプロと認めて、仲間として歓迎する姿勢を初めて示すのである。
 この映画の中で出会いのやり直しをするのは、グラントとアーサーの主役カップルだけではない。先述の場面で死んだ男の代わりに彼らのもとにやってきたバーセルメス扮する新任パイロットと、グラントの良き年長の理解者であるミッチェルとの、過去に因縁のある男同士の敵対関係も、物語の進展につれて次第に変化していく。バーセルメスは、かつてミッチェルの弟とコンビを組んで飛行機を操縦中、不慮のアクシデントに見舞われ、やむなく相棒を機内に残してパラシュートで脱出を図り、一人だけ命拾いをした過去があり、ミッチェルは彼に対して深い憎しみを抱いていたのだ。
 そんな過去の汚名をそそぐため、バーセルメスは、ほかのパイロットたちが思わずひるんでしまうような危険な飛行業務を、あえて黙々と引き受け続ける。そしてついには、あるのっぴきならない事情から、当のミッチェルともコンビを組んで決死のテスト飛行に挑むことになる。またしても過去の再演というべき不慮のアクシデントに見舞われた際には、致命的な重傷を負ったミッチェルを何とか救うべく、最後の最後まで機内にとどまって男気と勇気のあるところを示し、過去の落とし前を自らきっちりとつけてみせるのだ。そして、そんな彼に対し、始めは拒否反応を示していたミッチェルやほかのパイロットたちも、彼を一人前の男でありプロであると最終的に認めて、心からその集団の仲間に受け入れるのである。

◆ホークス・マジック 応用問題その1 

 さて、今ざっと説明したような「コンドル」の状況設定や人物関係を、物語の舞台を移して微妙にアレンジを加え、出演者たちの顔ぶれを入れ替えれば、たちまちホークスの別の映画に早変わりしてしまうことは、ホークス映画のファンにはすでによく知られている事実だ。主人公たちが常に死の危険と隣り合わせの極限状況下にあるという設定はそのままに、物語の舞台を、例えば第二次世界大戦下のきなくさい政治的空気漂うフランス領マルチニック島に移せば「脱出」に、保安官に逮捕された仲間を奪還しようと無頼漢たちが町を包囲した西部の地に移せば「リオ・ブラボー」に、そして、プロのハンターたちが豪快な猛獣狩りを繰り広げるアフリカの大地に移せば「ハタリ!」(1962)になる、といった具合。そしてその地へ偶然流れてきて、主人公を取り巻くプロフェッショナル集団の仲間に新たに加わるのが、上から順に、ローレン・バコール、アンジー・ディキンソン、エルザ・マルティネリという、いずれ劣らぬ魅力的なホークス的美女たちというわけだ。
 ここでそれら後年のおなじみのホークス映画の傑作群の異同を比較・検討し始めると、連想ゲームのごとく次から次へと例がわきあがってきて、これもある、あれもあるといった具合に話が広がってしまい、いつまでたってもキリがなくなる。ここではその誘惑をあえてグッとこらえて我慢し、今回の特集でオンエアされるもっと初期のホークス映画の方へと目を転じることにしよう。

◆応用問題その2 ― 「光に叛く者」

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 今回の特集の中で最も初期のホークス作品は、ギャング映画の傑作「暗黒街の顔役」の直前に発表された、刑務所映画の先駆的作品「光に叛く者」(1931)。1999年からその翌年にかけて、現存するホークス映画の約9割にあたる計38作品を一挙に集めた、映画ファンにとっては何ともぜいたくでうれしい限りの史上最大規模のホークスの特集映画祭がフィルムセンターで開催され、かくいう筆者も当時せっせと日参してホークスの映画世界を改めて存分に堪能したクチの一人なのだが、この「光に叛く者」は、そのときの上映プログラムにも入っていなかった貴重なお宝作品だ。今回のWOWOWの特集でようやく初めてお目にかかることができたのだが、先に「コンドル」を例にして紹介したホークス映画独自のテーマとスタイルが、すでにこの時点で見事なまでにしっかり確立されていることに思わず驚いてしまう。
 映画はまず、事件の発生を通報する一本の電話が警察署にかかってくるところから幕を開けるが、署に詰めている刑事たちが、事件そのものにはまるで無関心なまま、暇つぶしの賭けトランプにいつまでもうつつを抜かす様子をホークスは映し出し、すでに事件には慣れっこになっていて彼らの感情が何ごとにも動じないでいることを、冒頭から観客に的確に提示してみせるのだ。これは、後に「ヒズ・ガール・フライデー」で、裁判所の中の記者室にみこしをすえた新聞記者たちが、翌日の死刑執行を控えて、すぐ目と鼻の先で絞首台の準備が進められているのを平然と傍目で眺めやりながら、やはり賭けトランプに熱中するのと同様の例であり、彼らはその後、すぐ劇中から消え去ってしまうものの、やはり紛れもないホークスの映画世界のタフで非情な住人たちなのだ。
 そして、そんな非情で灰色の世界の中へ、フィリップス・ホームズ演じる世間知らずの純朴な青年主人公がふと迷い込む(「コンドル」以降の作品では、非情なプロ集団の中に足を踏み入れるのが女性であるのに対し、ここでは男性。けれども、男女の役割がここでは置き換えられていると見た方が、わかりやすいだろう)。ささいなことがきっかけで過失致死事件を起こした彼は、この映画のもう一人の主役であるウォルター・ヒューストン演じる検事と最初の対面を果たした後、刑務所へと送られてつらく厳しい服役生活を味わい、いったんはくじけそうになる。やがて、その刑務所の新たな所長に着任したヒューストンの粋な計らいのおかげで、立ち直るきっかけを見いだしたホームズだが、しかし今度はその恩義ある刑務所長と、あらためて真っ向から対決することになる。ホームズの同房の囚人の一人が、別の囚人の裏切りと密告のせいで命を落とし、それを知って報復を決意した大勢の囚人仲間たちが、看守たちの目を盗んで共同謀議を重ねた末、その卑劣な裏切り者を始末する殺人計画を実行するのだが(恐怖で震えあがる裏切り者を、一歩一歩静かに追い詰めて手を下す実行犯をすごみたっぷりに演じるのは、本作の出演後まもなく「フランケンシュタイン」(1931)のモンスター役に抜てきされて一躍有名となるボリス・カーロフだ)、その計画を何も知らされていなかったホームズは、偶然その現場に居合わせて、犯人と鉢合わせしてしまうのだ。
 刑務所長であるヒューストンは、この映画の原題でもある「The criminal code(刑法典)」をあくまで盾に取って、ホームズに、その実行犯の名前を吐くよう迫るのだが、一方、犯罪者(criminal)は犯罪者同士で、仲間を密告して死に追いやるような卑劣な裏切り者は生かしておけない、という彼ら独自のおきて(code)が厳として存在し(これは、仲間の友情と信頼を何より重んじるホークス的友愛集団の鉄則でもある)、かくしてお互いに譲ることのできない、2つの相異なる「The criminal code」を賭けた男同士の対決が、両者の間で展開されることになる。そしてホームズは、囚人仲間を裏切ってその名前を密告することはできないと、独房に放り込まれても最後まで沈黙を守り通し、最初はただのひ弱な青年だった彼は、ヒューストンのみならず、囚人たちの間でも一目置かれる、立派な一人前の男へと大きく成長するのである。
当初は自分の庇護者的存在であったヒューストンに対し、めざましい成長を遂げたホームズが、彼と堂々と対等に渡り合うようになるという展開は、後の名作西部劇「赤い河」における、ウェインとモンゴメリー・クリフトの疑似的父子の対立のテーマを先取りするとともに、次に取りあげる2本のスクリューボール・コメディー、「特急二十世紀」(1934)、「ヒズ・ガール・フライデー」における男性主人公とヒロインの立場の逆転も、やはり同一の論理に従っていると言えよう。

◆ホークス的論理のとめどなき暴走 ― スクリューボール・コメディの世界

 さて、今回の特集で放映されるホークスの2本の傑作スクリューボール・コメディー、「特急二十世紀」と「ヒズ・ガール・フライデー」においても、やはり出会いがあり、非情なプロフェッショナル集団への参入があり、そして出会いのやり直しがある......といった具合に、ホークスの映画世界を特徴的に示すテーマは、一応観て取ることができる。けれども、前出のジャック・リヴェットの論文がいち早く指摘しているように、ことホークスのコメディー映画においては、物語の展開の早さや圧縮の度合がそのほかのジャンル映画と比べて一段と際立っている上、男女の役割の転倒、男性主人公の幼児退行といった、いかにもホークス的な倒錯的論理や人物の戯画的描写が極限まで高進・徹底化され、映画の全編に渡ってクレイジーでナンセンスな笑いがさく裂することになるのだ。

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 「特急二十世紀」において、無名の女優であるヒロインのキャロル・ロンバードは、ジョン・バリモア扮するブロードウェイの大物舞台演出家の厳しくも情熱的な演技指導のもとで、徹底的にしごかれる。そして舞台上の魔術師のごとく振る舞う演出家によって、本名からリリー・ガーランドなる芸名に勝手に改名させられるのみならず、さらに今度は「君はもうリリー・ガーランドじゃない。ヒロインのメリー・ジョーだ」とけいこ中の新作劇の役名で呼びかけられてまじないをかけられ、舞台という魔術世界への参入を果たした彼女は、見事スター女優へと変身を遂げるのだ。(映画の中に頻出するニックネームに新たに着目したデヴィッド・ボックスウェルの卓抜なホークス論(参考サイト:英文になります)が説得力豊かに論じているように、ホークスのあらゆる作品の中で、主人公とその仲間たちが、お互いをさまざまな愛称やあだ名で呼び合う様子は、彼ら同士の親密な間柄、友情を何より物語る符丁として機能しており、部外者がその友愛集団へと入会を果たす際には、洗礼により新たな名前が授けられるごとく、改名の儀式が必要となる。「光に叛く者」では、ウォルター・ヒューストンがホームズに「愛称はボブか?」と尋ねるのが、そのきっかけとなる。また、「コンドル」のリチャード・バーセルメスや「永遠の戦場」のライオネル・バリモアが、共に偽名を使って集団への入会をかろうじてパスするのも、そのバリエーションと言えるだろう)。
 これが通常のホークス映画なら、これでめでたし、めでたし、と終わりを迎えるところだが、「特急二十世紀」の中では実はこれはまだほんの序幕にすぎない。そして、次の場面ではもう一足飛びに時間が過ぎて、公私に渡る良きパートナーとなった2人の蜜月期間は早くも終わりを告げ、自分の手をすり抜けてさらに別の世界へ飛び立とうとするロンバードを、今度は逆にありとあらゆる手段を使って引き止め、手元にとどめておこうと必死で涙ぐましい奮闘を繰り広げるのは、哀れなジョン・バリモアの方なのだ。

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 「ヒズ・ガール・フライデー」となると、もはやグラントとロザリンド・ラッセルの主役カップルの最初の出会いの場面は、劇中では始めからすっ飛ばされて省略され(最初はうぶで世間知らずのお嬢さんにすぎなかった彼女を、どんな男にも負けない一流の女性敏腕記者に仕立てたのはおれだ、と辣腕編集長のグラントがせりふでまくしたてる場面はあるが)、再婚のため、前夫の彼に別れを告げに来たラッセルを、グラントが必死で食い止めてよりを戻そうとするし烈な闘いが、映画の全編を通じて繰り広げられることになる。冒頭、新聞社のオフィスに婚約者を伴って現れ、職場の同僚たちと親しげに名前を呼び合って別れのあいさつを交わす彼女のさっそうとして屈託のない姿は、「光に叛く者」のホームズが、警察署に連行され、検事のヒューストンの最初の取り調べを受ける際、いかにも異世界にふと紛れ込んだ哀れな迷子よろしく、一人おどおどとたたずむ姿と見事なまでに好対照をなし、すでにここでのラッセルは、この世界に一流のプロとしてすっかり溶け込んでいることを何より端的に物語っている。そして、だからこそグラントは、自身の最高のパートナーでもあった彼女の才知と実力が、平凡な男との再婚によって失われるのが何よりも口惜しく、あらゆる悪知恵を総動員して彼女を引きとめにかかるのだ。
 「特急二十世紀」と同様、ベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサー・コンビの舞台劇を再び映画化した「ヒズ・ガール・フライデー」が、本来、原作では男同士だった主役コンビを実に巧みにも、元夫婦である一組の男女という人物設定に変えた、いかにもホークスならではの男女の役割交換というテーマの最上の例の一つであることは、すでによく知られた事実であり、ラッセル演じる男勝りのタフなヒロインが、グラントと、トーキー映画史上、最もし烈なスピードとテンポで丁々発止の痛快なマシンガントークを繰り広げるありさまを、我々はただただ呆気にとられ、あ然としながら見守るよりほかはないだろう。

◆穴埋め問題、席取りゲーム、円環的回帰  ― 「永遠の戦場」

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 「永遠の戦場」(1936)で男性主人公の一人、ワーナー・バクスターが演じるのは、第一次世界大戦中のフランスの戦場で中隊を指揮する大尉。前線へ若い兵士たちを次々と送り出しては多くの部下の命を失い、失意と苦悩をタフな外面の奥に押し隠しながら、なおも日々苦闘を続けるというこの主人公の人物設定は、ホークスが先に作り上げた戦争航空映画、「暁の偵察」(1930)でニール・ハミルトンが演じた役柄をそっくりそのまま流用したものであると同時に、「コンドル」の主人公グラントの役柄も、これまたそのバリエーションであることに、すぐ気付くだろう。そして無論それはただちに、「脱出」のボガートや「リオ・ブラボー」「ハタリ!」のウェインにも当てはまることを意味する。戦場で、あるいは通常の社会から切り離されたへき地や、孤立した西部の町で、仲間のけがや死によって欠員が生じた穴を、いかにより腕の立つ交替要員で補い、損失を最小限に抑えて何とかうまくやりくりしながら、集団を存続させていくか。それがホークス映画においてプロ集団を率いるリーダーに課せられたつらい宿命なのだ。
 そして、このバクスター率いる部隊の補充兵の一人として、彼の年老いた父親(を喜々として楽しそうに演じるのは、名門演劇一家の一員ライオネル・バリモア。ちなみに「特急二十世紀」の主演ジョン・バリモアは、このライオネルの4歳年下の弟)が、わが子に一目会いたいばかりに、年がいもなく年齢も名前も偽って無理やり部隊に潜りこんでくるあたりから、この「永遠の戦場」は、前半のやや重苦しい雰囲気から一転して、俄然ユーモラスな調子を帯びるようになる。後の「リオ・ブラボー」でウォルター・ブレナンが演じるあの愛すべきスタンピーじいさんと同様、ここでのライオネル・バリモアは、いわば先祖返りして子どもに回帰した駄々っ子そのものであり、ホークス映画のコメディーの系譜における幼児退行の好例の一つでもある。「コンドル」のパイロット集団の中で最年長者だったミッチェルのあだ名が、実は"キッド"であったことがここでふと思い出される(これとは対照的に、オムニバス映画「人生模様」(1952)の中でホークスが演出を手掛けた第4話の「赤酋長の身代金」、あるいは「紳士は金髪がお好き」(1953)の中に登場する子どもたちが、共に妙にこまっしゃくれたませガキであったことも)。
 そして、息子の心配をよそに、前線での戦闘にも揮って参加したものの、恐怖心に駆られて重大なミスを犯し、味方に損害を生じさせたのみならず、息子の目まで失明させてしまったジョン・バリモアは、「コンドル」のバーセルメスと同様、その過ちを償うべく、盲目となったバクスターと二人三脚で死地に赴き、過去の借りを返す働きを見せてきっちり落し前をつけてから、晴れやかで壮絶な最期を遂げるのである。
 そして今度は、ワーナー・バクスター自身の死によって空位が生じたこの部隊の指揮官の座を、この映画のもう一人の男性主人公であるフレデリック・マーチが引き継ぎ、そしてまた、バクスターの許婚だったジューン・ラングも彼が恋人に譲り受ける形で物語の円環的構造がきれいに輪を描き(「コンドル」のアーサーが、リタ・ヘイワースの後を受ける形で、空きができたグラントの<ヒズ・ガール>のポジションにするりと入り込み、そして、グラントのずばり古女房というべきミッチェルの亡き後に、晴れてその後釜に座るように)、映画の冒頭とラストが一つにつながったところで、「永遠の戦場」は、終わりなき終幕をひとまず迎える。そしてまた、われわれも最初の出発点に戻ることになる。

◆無限に増殖し、乱反射するホークス的宇宙 

 さて、こうして今回WOWOWで放映される戦前の5作品を中心に、ホークス映画の世界をざっと振り返ってみたところで、改めて浮き彫りとなるのは、ホークス映画の世界をつかさどる独自の論理の首尾一貫性であり、あるときは男女の役柄を入れ替え、またあるときは大人と子どもの立場を転倒させ、さまざまなテーマとテーマの順列組み合わせを試してみながら、ホークスが、一見異なる顔はしていても基本的にはどれも同じ一つの映画を、決して単調さや退屈な反復に陥ることなく、飽くなき知的探求心と遊戯精神、そして真のプロフェッショナリズムを発揮しながら作り続けた、という驚くべき事実だ。
 今回特集でオンエアされる5作品がどれも本質的に似通っていること、また「コンドル」からさらに派生して、「脱出」そのほかの同じ物語構造を持った作品が生みだされたことは、これまで説明してきた通りだが、「コンドル」にはまた、その直接的な前身たる「無限の青空」(1936)があり、また「脱出」が、実はあの「カサブランカ」(1942)を換骨奪胎したもの、そして「リオ・ブラボー」が「真昼の決闘」(1952)へのホークス流反歌として作られたことも、映画ファンにはよく知られた事実だ。そして、この「リオ・ブラボー」がさらに「エル・ドラド」(1967)と「リオ・ロボ」(1970)という同工異曲の西部劇3部作を生み出し、はたまた、「赤ちゃん教育」(1938)が「男性の好きなスポーツ」(1964)に、「教授と美女」が「ヒット・パレード」(1948)にホークス自身の手でリメイクされ......といった具合に、ホークス映画という一つの巨大宇宙を形作る星座群は、まだまだその先へと広がっているのだ。それにしても、何というめくるめく驚き、何という途方もなさ! これで、筆者が最初に提示した、ホークス映画を次から次へとハシゴしたくなるという不思議さの秘密が、多少はわかってもらえるだろう。
 あまり繁雑になるのもどうかと思い、本稿では、すでに何度となく語られているホークス映画の魅力的な細部のいちいちを列挙することはあえて避けたのだが、でも最後にやはり一つだけ挙げておくと、タバコとマッチの火の交換を介した愛情表現という、ホークス映画のファンにはすっかりおなじみのテーマでいえば、あの「脱出」や「三つ数えろ」(1946)のローレン・バコールとボガートのコンビに勝るとも劣らない素晴らしく感動的なやりとりを、「コンドル」のグラントとミッチェルとの間で目にすることができるし、逆に「光に叛く者」の刑務所の中では、その最も不毛で絶望的な変奏バージョンを見ることができる。そして、こうしたホークス映画の各作品をつなぐ重要なキーとなる魅力的な細部を、観客の一人一人が各自の目で見つける楽しみがあるだろう。    

 さあ、では、ホークス映画の魅惑の世界へ、再び三度会いに行くことにしよう。合言葉はもちろん、ハロー、プロフェッショナル!


<オンエア一覧>
ヒズ・ガール・フライデー」 7月12日(日)午前7:20 [191ch][HV][字]
特急二十世紀」 7月13日(月)午前8:00 [191ch][HV][字]
コンドル」 7月14日(火)午前8:00 [191ch][字]
光に叛く者」 7月15日(水)午前8:00 [191ch][字]
永遠の戦場」 7月16日(木)午前8:00 [191ch][字]



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