<チェンジ/リングの神話学 ― 変貌/回帰し続ける映画界の偉大なストレンジャー>

◆そして人生はつづく
changeling.jpg 「アメリカ人の人生に第二幕はない」―クリント・イーストウッドが、彼自身、個人的に深い思い入れのあるジャズ界の伝説的革命児チャーリー・パーカーの生涯を演出に専念して描いた映画『バード』(1988)の冒頭には、作家F・スコット・フィッツジェラルドが未完の小説「ラスト・タイクーン」のメモとして書き残した上記の一節が、エピグラフとして掲げられている。なるほどこの言葉は、わずか34才でこの世を去った悲劇的な天才ミュージシャン、パーカーや、「ラスト・タイクーン」の主人公のモデルとなった、37才で夭折したハリウッド黄金期の伝説的プロデューサー、アーヴィング・サルバーグ、そしてやはり44才で早世したフィッツジェラルドその人に、いかにも似つかわしい。

 けれども、これまたまぎれもないアメリカ人の一人であるイーストウッド自身の、無名の俳優時代から数えるといまや優に半世紀以上にも及ぶ息の長い映画人生(よく引き合いに出されて映画ファンなら周知の通り、彼は、あのジャン=リュック・ゴダールと同じ1930年生まれで、この5月31日で御年、80才を迎える。また既に1980年にこの世を去った人気スター、スティーヴ・マックィーンも同年生まれ)、そして、『バード』以後、還暦を超えてからの彼が、監督としての演出手腕にますます磨きをかけながら今日まで世に送り出し続けている充実した作品群の物語内容をここで振り返ってみたならば、事態はまさにその逆で、「アメリカ人の人生に第二、第三幕はある」と、つい言い返したくなってしまう。

 かつては無法者のワルだったが、その後改悛して農夫としての生活を送っていた『許されざる者』(1992)の主人公は、運命の呼びかけに応じて再び銃を手にし、地獄巡りの旅へと出発する。『スペース カウボーイ』(2000)や『グラン・トリノ』(2008)の老主人公たちも、またしかり。『ブラッド・ワーク』(2002)の元FBI捜査官は、心臓移植によって第二の生を授かり、執念深い連続殺人鬼との宿命の対決に挑む。あるいはまた、アメリカン・ドリームを追う『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)の遅咲きの女性ボクサーのその運命の先には、さらなる過酷な試練が待ち受けていたではないか。『父親たちの星条旗』(2006)で戦争の英雄に仕立てられた兵士たちは、戦場から帰還した後も茶番劇を演じ続けるはめとなるし、一方こちらの主人公はアメリカ人ではなく日本兵たちだが、『硫黄島からの手紙』(2006)は、『父親たちの星条旗』の撮影中にその逆側の視点から見た姉妹編として作られることが急遽決まったという企画の成立経緯からして、前作の芝居の続きと言っていい。そして、南アフリカ共和国の偉大な指導者ネルソン・マンデラを主人公に据えた『インビクタス/負けざる者たち』(2009)は、アパルトヘイトのため長年刑務所に幽閉されていた彼が、ようやく自由の身となり、新たな国作りを一からやり直すところからドラマが始まる。

 いや、実のところ、話は『バード』以後の作品だけに限らない。既に『愛のそよ風』(1973)でイーストウッドは、孤独な中年男が溌剌とした十代の少女と出会うことで人生の再起を果たしていく様子を魅力的に描いていた。ベトナム戦争で心に後遺症を負い、退役していた『ファイヤーフォックス』(1982)の元空軍パイロットも、『許されざる者』や『スペース カウボーイ』の主人公たちと同様、運命の招きによって再び現役に復帰する。また、『荒野のストレンジャー』(1972)や『ペイルライダー』(1985)をはじめ、数々のイーストウッド映画を語る上で欠かせない"幽霊"あるいは"天使"という特権的キャラクター、あれこそまさに、現世での限られた一回きりの生、という常識を超えて無限の延長タイムを生きる不可思議な存在と言わずして何だろう。そして驚くなかれ、今年日本で劇場公開され、大ヒットしたのも記憶に新しい『インビクタス/負けざる者たち』に続くイーストウッドの最新監督作の題名はなんと、今後あるいは来世を意味する『Hereafter』だという......。


◆凱旋の英雄万歳 
grantorino.jpg さて今回WOWOWで、「円熟の極みへ」と題して、イーストウッドの主演、監督作をまとめて特集したプログラムがオンエアされる。長年、彼の映画に魅了され続けてきた大ファンの一人である筆者にとっても、何とも喜ばしい限りだ。

 いまや、現代ハリウッド最強のカリスマ・スターにして最大の映画作家という唯一無二の存在を誇るイーストウッドだが、しかし今日の世界的評価にまで至る彼の映画人生の道のりは、決して順調かつ平坦なものではなかった(彼が自らの主宰する独立プロを、スペイン語で悪路とか茨の道を意味する「マルパソ」と名づけているのは、既によく知られている通り)。とりわけ、スター俳優から監督業への進出に関しては、むしろ周囲の人々を戸惑わせることの方が大きく、イーストウッドを現代の貴重な映画作家として正当に評価することをかえって妨げてきたとも言えるだろう。『恐怖のメロディ』(1971)で監督デビューしてから約20年間、本国アメリカよりもむしろ、日本やフランスでの評価の方が先行していたイーストウッドは、自ら"最後の西部劇"と呼び、"暴力の本性とそれが及ぼす反響についての映画を作りたい"と満を持して世に放った渾身の傑作、『許されざる者』でアカデミー賞の作品、監督賞を含む計四部門に輝いて、ようやくハリウッドにおいても映画作家としての地位と名声を確固たるものとする。そして以後、ますます驚異的な快進撃を続けていることは既に述べた通りだ。

 しかしイーストウッドはなにも、『許されざる者』で突如、映画作家として飛躍的成長を遂げたわけでは決してない。いや、それを言うならむしろ、彼はその間もたえず変貌し続けていたし、あるいは、実のところ、常に頑固に同じことを繰り返してきたという見方も成り立つ。実際、イーストウッドは監督業を手がける以前、まずは映画スターとしてブレイクすることになった1960年代半ばに、最初の大きな変貌を遂げて世界中をアッと驚かせている。既によく知られている通り、TV西部劇の長寿番組『ローハイド』(1959~66)の準主役の気のいい青年カウボーイ役に起用されて、次第にお茶の間で人気を博すようになっていた彼のもとに、イタリア製西部劇への出演依頼の話が舞い込み、半ばドサ廻り同然、"ほんの小銭稼ぎ"にヨーロッパに出向いたイーストウッドは、セルジオ・レオーネ監督とのコンビで、『荒野の用心棒』(1964)に始まるマカロニ・ウェスタン三部作にたて続けに主演。それらの作品で、従来の正統的なアメリカ製西部劇に登場する正義のヒーローとはおよそ異なる、素性のいかがわしい雇われ用心棒や賞金稼ぎの主人公を斬新なスタイルで演じてのけた彼は、一躍、新たな時代のアンチ・ヒーロー像を切り拓いて話題を集め、世界的な人気スターとなってハリウッドに凱旋を果たすのである。


◆逢う時はいつも他人
guntlet.jpg どこかへ行って再び舞い戻ってくると、そのとき既に、彼は元のものとは何かしら違う別人へと変貌を遂げていた。イーストウッド・ファンたる筆者としては、TVドラマやヨーロッパの辺境の地をさすらい、卑賤な世界でしばしの放蕩生活を送っていたイーストウッドが、遂にその本性に目覚め、真の王位継承者たるにふさわしい若者に成長して映画界に凱旋復帰したという、現代の貴種流離譚をここに見てとりたいところだが、そのことの当否はさておき、ここで少し立ち止まってあらためてこの事態をよく考えてみると、これは前に述べた"幽霊"あるいは"天使"という主題(ここに"生ける屍"という新たなバリエーションを加えてみてもいいかもしれない)とも密接に関連してさまざまな映画に頻出する、きわめてイーストウッド的な特徴を帯びた出来事と言えるだろう。

 ここで一つ、『ミスティック・リバー』(2003)の不幸で痛ましい少年の例を思い出してみよう。路上で遊んでいるところを小児性愛の常習犯たちに誘拐され、性的虐待を受けた後に帰還した彼は、もはや決定的にイノセンスを喪失して元の彼自身に戻る可能性を奪われ、すっかり別人=生ける屍と化している。そして、同様の例が『チェンジリング』(2008)ではより明示的な形で変奏され、不意の失踪を遂げてしばらくの後、アンジェリーナ・ジョリー扮する母親の前に、愛する我が子として連れ戻された少年は、文字通り、本人とは似ても似つかぬ別人として立ち現れるのである。それにしても、自分の見知らぬ赤の他人たる少年から「ママ!」と呼びかけられることの、何という薄気味悪さ。かの精神分析の創始者ジークムント・フロイトは、本来、自分にとって馴染み深くて慣れ親しんできたはずの対象が、何らかの抑圧を受け、異質なものへと転じて回帰してくることに「無気味なもの」の原初を見てとったが、この場面はまさにそれを端的に示した例と言える(さらに付け加えると、これは、イーストウッドの師たるドン・シーゲル監督の初期の代表作『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(1956)の中で生じるあの戦慄的事態、"見た目は同じに見えるけど、でもこの人は、私の知ってるあの人じゃない!"を、イーストウッドが鮮やかに継承・発展させたものと言えるだろう)。

 さてイーストウッドは、かくして世界的な人気スターへと変貌を遂げてハリウッドに舞い戻った後、ただちに先述の独立プロ「マルパソ」を設立して、自らの企画・主導で映画製作に乗り出し、遂には監督業にも進出して映画作家として独自の道を歩み出すわけだが、以後イーストウッドは、スクリーン上にその都度、以前の彼とは似ているようでどこか違う無気味なストレンジャーとして回帰し、その受容・認知をめぐって周囲に誤解や戸惑い、混乱の輪を広げ続けることになるのである。


◆汚れた顔の天使
dirtyharry.jpg なかでも、イーストウッドがシーゲル監督と組んで発表した刑事アクションの金字塔的傑作『ダーティハリー』(1971)は、マネーメイキング・スターとしてのイーストウッドの人気と地位を決定的に不動のものとする一方で、マカロニ・ウェスタン三部作以来、すっかりお馴染みとなった彼独自の"ダーティ"な映画的ペルソナをより強烈に印象づけた。そして、悪ののさばる世界で自らも法や秩序に縛られないアウトロー的な行動を繰り広げながら、乱暴に銃をぶっ放して悪者を退治する"マッチョなタフガイ"という世間的イメージを一層広めて、"ファシスト"という非難も被ることになり、それがこの作品自体やその後のイーストウッド映画の評価をめぐる大きな躓きの石となったことは、決して否めない事実だろう。そのことは、先にも述べた『許されざる者』や、あるいはつい最近の『グラン・トリノ』が、そうした浅い通念でしかイーストウッドを知らない多くの人々にとっては、大いなる驚きと衝撃をもって受け止められたことからも充分に窺い知ることができる。

 しかし今やイーストウッド・ファンにとっては周知のごとく、この『ダーティハリー』の前に、やはりシーゲル監督との名コンビで生み出された異色の傑作『白い肌の異常な夜』(1971)、そしてその影響を色濃く受け継いだ直後のイーストウッドの監督デビュー作『恐怖のメロディ』(1971)において、共に彼の演じる主人公が、自ら招き寄せた過失責任もあるとはいえ、周囲の女性たちに散々いたぶられ、翻弄され続ける受動的な被害者であったことを思い起こすならば、イーストウッドを単純に"マッチョなタフガイ"と決めつける見方が、いかに粗雑で誤ったものであるかが分かるだろう(ただし、どこまでも聡明でしたたかなイーストウッド自身は、そうした外部からのレッテル貼りをあえて戦略的に活用し、『ダーティハリー』をシリーズ化してドル箱安定路線を敷きながら、一作ごとにその内実を問い直していく一方で、『ダーティファイター』(1978)二部作では、絵に描いたような"マッチョなタフガイ"の主人公を皮肉なユーモアと愛嬌たっぷりに演じてセルフ・パロディ化し、軽妙に笑い飛ばしてみせている点も見落とせない)。

 実際、この『ダーティハリー』においても、イーストウッド扮する刑事のハリーは、決して自分の方から無闇やたらに拳銃をぶっ放す直情径行型の能動的キャラクターではない。つとに松浦寿輝氏が的確に喝破してみせている通り(『映画1+1』所収「ゆるやかなアクションの人―イーストウッド」)、映画の中で二度繰り返される例のお馴染みの名場面、「俺の銃に弾が残っていないと思うのならさあ撃ってみろと挑発するシーンに、受身の人イーストウッドの祖型的な身振りが定着されている」「とにかくハリー刑事とは、まず挑発し、相手の出方を待ったうえでそれに対して反撃する受身の人」であり、「決して先制攻撃を仕掛けることなく、最初の一発はまず相手に撃たせる後攻の人」なのである。


◆パッション
spacecowboys.jpg ところで、先に名を挙げた『恐怖のメロディ』や『白い肌の異常な夜』に限らず、イーストウッド映画の主人公たちは、他者の手で自らの身体をいいように傷つけられ痛めつけられながら、どこまでも受身になってその過酷な状況に必死に耐える受難=受苦の瞬間を必ず持っている。その苛烈な試練=通過儀礼をくぐり抜けてこそ初めて、彼ら彼女たちはいかに見た目は悲惨で絶望的状況であっても、イーストウッド的、あるいはキリスト教的(ただし、あくまで世俗的で限定化されたものだが)な聖痕を帯びて光り輝くのであり、公開処刑の一種を指す映画の題名通り、決死の覚悟で装甲バスに乗り込み、沿道に立ち並ぶ武装した警官隊が雨あられと銃弾を降り注ぐ中、じりじりとゴール目指して前進していく『ガントレット』(1977)のイーストウッドとソンドラ・ロックの主役コンビから、隔離病棟に放り込まれた末、真っ裸で冷たい放水を浴びせられる『チェンジリング』のアンジェリーナ・ジョリー、はたまた、ベッドに拘束されて片足を切断される『白い肌の異常な夜』のイーストウッドをそのままなぞるかのように同様の運命を辿る『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクに至るまで、そうした例は枚挙にいとまがない。

 こうして見てくると、『グラン・トリノ』のクライマックス・シーンで、イーストウッド演じる頑固な老主人公が、『ダーティハリー』(あるいは、こちらはシリーズの中で唯一自ら監督も兼ねたイーストウッドが、例の有名な決め台詞「Go ahead. Make my day !」を吐く『ダーティハリー4』(1983))の記憶やイメージを観客の脳裏に限りなく喚起しつつも、そこからなお一歩先を行って敢然と選び取る殉教者の身振りは、決して意外でも何でもなく、むしろ理の必然だったことが理解できるだろう(ちなみに、『ペイルライダー』や『目撃』(1997)などでイーストウッド演じる主人公たちがよく見せる、ここかと思えばまたあちらという自在な"神出鬼没"ぶりも、既にファンにはよく知られた特徴的身振りだが、それをもじって『グラン・トリノ』の主人公をずばり一言で言い表すと、さしずめ"鬼出神没"となる)。


◆私の中のもう一人の私
mokugeki.jpg また、本来、法の番人たる一刑事の身でありながら、法的手続きを無視して自らも荒っぽいアウトロー的行動を繰り広げつつ、犯人に立ち向かっていく主人公ハリーの姿勢に、『ダーティハリー』への良識派からの批判が集中したわけだが、我が物顔で市中を暴れ回る殺人鬼のサソリに対して、どこまでも硬直化した官僚主義的態度しか示さず、非力で無能なさまを露呈するばかりの警察や市当局のお偉方たちの姿を通じて、現今の法制度の矛盾や限界点が浮き彫りとなり、そうした連中とはあくまで好対照をなす形で、妥協することなく自己の信念と行動原理を貫く主人公ハリーの姿は描かれている。『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』に凝縮した形で示されている通り、各人の多様な個性や自由な思考を封殺する体制順応的な官僚組織と常に対比させながら、そこからはみ出して一匹狼的に生きるアウトサイダーの主人公たちを魅力的に描き出すところに、まさにドン・シーゲル監督の真骨頂があり、彼は、『ダーティハリー』に先立つ二本の刑事アクション、リチャード・ウィドマーク主演の『刑事マディガン』(1967)、そしてイーストウッドとの記念すべき最初のコンビ作となった『マンハッタン無宿』(1968) でも、同様の主題を追求していた。

 それでもなお、イーストウッドは、『ダーティハリー』が巻き起こした大きな社会的論議の反省を踏まえ、テッド・ポストを監督に迎えて作った続編の『ダーティハリー2』(1973)では、法の手の及ばない悪人どもを私刑という形で裁いて始末していく白バイ警官隊の自警団を登場させ、彼らと対決するハリーが、(既に前作でのサソリがそうした存在だったように)いわば自らの"影の分身"あるいは"内なる殺人者"を葬り去ることで、自身の心の内に潜む邪悪なものに決着をつけ、悪魔祓いをするという、より一層内向きに屈曲したドラマを紡ぎだした。そして、凶悪犯を追う主人公が、最終的に、他者の形象を借りて目の前に立ち現れる自らの分身=ドッペルゲンガーと対決するという主題は、その後も『タイトロープ』(1984)や『ブラッド・ワーク』で繰り返し描き出され、『グラン・トリノ』にも確実にそのこだまが響いているのである。


◆死刑執行人もまた死す
bloodwork.jpg さてここで、イーストウッドが、やはりポスト監督と先に組んでマルパソの第一回作品として発表した『奴らを高く吊るせ!』(1968)が、あらためて振り返って注目すべき映画として浮上してくる。というのも、それ以前に彼が出演していた、どこまでも荒廃した無法地帯が茫洋と広がるマカロニ・ウェスタンの血塗られた暴力的風土を、いまだ発展途上で不完全であるとはいえ、まがりなりにも法治国家アメリカの西部劇の場へ移し替えるにあたって、イーストウッドは、法と正義という、何とも厄介で以後の彼の最重要課題となる主題の検討に本格的に着手すると同時に、レオーネの三部作では戯画的なまでに無化されていた登場人物たちの善悪の境界線(人間はみな、面の皮一枚剥げば、どいつもこいつも欲に駆られた醜い悪党ばかり、というのがレオーネ流の冷笑的な人間哲学と言えよう)についても、ここであらためて再考してじっくり見極めることを観る者に課しているからだ。

 実際、この『奴らを高く吊るせ!』は、冒頭、身に覚えのない牛泥棒の汚名を着せられた主人公のイーストウッドが、いきなり自警団に取り囲まれて縛り首にされ、危うくあの世へ行きかけた末にかろうじて生き延びるところから物語が始まる点で、後に自身で監督を手がけることになる数々のイーストウッド映画の一つの原型を打ち立てた重要な作品といえる。冥界から蘇った主人公の復讐劇という物語形式は、『荒野のストレンジャー』(1972)や『ペイルライダー』など、その後の西部劇にも引き継がれるし、イーストウッドが自ら最も影響を受けた映画の一本と公言するウィリアム・A・ウェルマン監督の異色作『牛泥棒』(1943)から多くを受け継いだ、あやまった正義の名のもとに断行されるリンチや暴力、あるいは、それと相似形をなす法や秩序を司る者が恣意的に濫用する権力についての問い直しという主題は、先に述べた『ダーティハリー2』を経て、その後、『許されざる者』や『パーフェクト ワールド』(1993) 、『トゥルー・クライム』(1999) 、『ミスティック・リバー』、『チェンジリング』などで、より深い陰影と省察を伴って追求されることになる。さらに、『目撃』では実に合衆国大統領その人、また『父親たちの星条旗』においては国家そのものの品格が厳しく問われることとなるのである。


◆アメリカの影
firefox.jpg ところでイーストウッドは、『ブロンコ・ビリー』(1980)において、古き良き西部の神話を現代のアメリカに蘇らせて再現する「ワイルド・ウェスト・ショー」の旅回りの見世物一座を題材に選び、彼自ら扮する座長を筆頭に、元囚人やベトナム戦争の徴兵忌避者、先住民など、いずれも社会の落ちこぼれたちから成る連中が、"この一座では誰もが自分のなりたい者になれる"と、お互いに助け合い励まし合いながら楽天的な夢の世界に生きる様子を、微笑ましいユーモアと多少の皮肉を交えて軽妙に描き、西部の建国神話同様、いささか時代錯誤なアメリカン・ドリームの理想と希望を大らかな調子で謳いあげてみせた。

 アメリカン・ドリームの追求という主題は、イーストウッドが肺病持ちのしがない流しの歌手に扮し、カントリー音楽の聖地ナッシュビルをめざして旅に出る『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)でも再び中心に採り上げられ、描き出されている。けれども、『ブロンコ・ビリー』の時と違ってこの作品では主人公の運命に死の影が微妙につきまとい、次第に暗いトーンが劇中に忍び寄るようになる。そして、ヒラリー・スワンク扮する女性ボクサーが社会の底辺から這い上がってその頂点をめざす『ミリオンダラー・ベイビー』では、後半、一気に彼女の運命が暗転し、アメリカン・ドリームを実現するのはそうたやすいことではなく、その奥には思いがけない陥穽が待ち構えていて、時に苦い悪夢へ転じてしまう場合もあることを、イーストウッドは峻厳なタッチで描いて見せるのである。

イーストウッド映画において、その有効性・耐用性の見直しが迫られるのは、アメリカン・ドリームの神話だけではない。東西冷戦の時代、アメリカは旧ソ連と国家の威信と栄光をかけ、宇宙のフロンティア開拓をめぐって激しい競争を繰り広げた。その宇宙空間を舞台にした『スペース カウボーイ』では、NASAの腐敗した高官の旧悪が思いがけない形で現在に跳ね返ってくる。もはや遺物と化した冷戦期の時代遅れの産物が、遅効性の時限爆弾よろしく、しばしの空白期間を経て不意に作動し始めて暴走化し、その矛先を自らの方へ向けながら戻ってくる、というのは、既に繰り返し述べた"無気味なものの回帰"というイーストウッド的主題の一例であると同時に、彼の師たるドン・シーゲル監督が同様の題材を扱った『テレフォン』(1977)のことをつい想起させずにはおかない。

 そして第二次大戦中、アメリカが日本とこれまた国家の威信をかけて激戦を繰り広げた硫黄島にスポットをあて、その知られざる舞台裏の真実を描いた『父親たちの星条旗』。この作品において、島の山頂に米国旗を打ち立てて名高い報道写真の被写体に収まり、銃後の国民の愛国心を鼓舞するのに貢献した三人のアメリカ兵たちは、それに目をつけた政府の役人たちによって戦地から祖国へ呼び戻され、さらなる愛国キャンペーンの旗振り役としてアメリカ各地を巡業する旅へと駆り出される。これは彼ら三人にとって、写真撮影時における"やらせ"芝居の果てしない再演であると同時に、実は先に紹介した『ブロンコ・ビリー』の巡業一座の、沈鬱でほろ苦いアイロニーを伴った陰画=ネガでもある。さらには、この『父親たちの星条旗』と対になる作品として作られた『硫黄島の手紙』。この二本は公開時、同じ硫黄島の戦いを勝者の側と敗者の側の双方の視点で描いた二部作として喧伝されたものだが、既に、無理やり英雄に仕立て上げられた『父親たちの星条旗』の主人公たちの悲劇的運命を見たように、この戦争において実質的に勝者などはなく、日米双方の若者とも、国家の論理によって戦闘や広告塔に駆り出されて苦汁を嘗める犠牲者があるばかりなのである。


◆遠い国
 さてこうして、その長い映画人生をざっと駆け足で辿って振り返ってみると、イーストウッドの映画作りとその題材の選択には、きわめて聡明かつ健全なバランス感覚に基づく、ある種の規則的な方向性が見えてくる。

 現代映画界きっての生ける伝説、アイコン的存在として、自ら強烈な神話的イメージを生みだして人々の脳裏に焼き付ける一方で、その類型的イメージに安易にもたれかかって同じことをいつまでも模倣・反復するのではなく、むしろ、たえずそれをさまざまに変奏し、時に別の角度から違う光を投げかけて同じ主題(例えば、両刃の剣としての暴力について)を何度となく再検証し、その拠って立つ倫理的基盤も問い直しながら、自己更新と内部変革の作業を怠りないこと(チェンジ/リング!)。そして、自らもその成員の一人として、アメリカのさまざまな神話をいま一度見つめ直し、勝者や権力者の側の視点からではなく、社会の底辺であえぐ弱者の側にそっと寄り添い、女性や老人、少数民族など、周縁に生きるマイノリティ同士、静かに連帯の輪を広げながら、個人の自由と独立を尊重する民主主義国家アメリカの理想を一から洗い直すこと、などがそれにあたるだろう。

 人々の上に立って国や組織を正しく統治すべき為政者やリーダーたちが、権力に溺れて常道を外れ、法と秩序が揺らいでどこか歪んだ世界。西部開拓時代から今日に至るまで、いまだになお「パーフェクト ワールド」への険しい道(マルパソ!)の途上にあるアメリカという国の各地を、イーストウッド映画の主人公たちはたえずさすらい、数々の苦難に身を曝し続けながら、はたして善悪とは、そして正義とは一体何なのかという問いを、観る者に投げかけ続けている。

P.S.
 なお、現時点での彼の監督最新作『インビクタス/負けざる者たち』が、最近のイーストウッド映画にはきわめて珍しく、不条理なカタストロフや悲劇的な死に一切見舞われることなく、ひたすら明快で幸福な作品に仕上がっているのは、その主人公や物語の舞台がアメリカという主題ときれいさっぱり切り離されていることと、おそらく無関係ではない。これは、やはり国家の頂点に立つ為政者を主人公に据えた『目撃』のポジ=陽画として見られるべき作品なのである。



<オンエア一覧>
「ダーティハリー」

5月15日(土)午後0:30 [191ch][HV][5.1][字]/6月21日(月)よる6:00 [191ch][HV][5.1][字]

「ガントレット」
5月15日(土)午後2:20 [191ch][HV][5.1][字]/6月22日(火)午後4:40 [191ch][HV][5.1][字]

「ファイヤーフォックス」
5月15日(土)午後4:20 [191ch][HV][5.1][字]/6月23日(水)午後4:40 [191ch][HV][5.1][字]

「目撃」
5月15日(土)よる6:50 [191ch][HV][5.1][字]/6月24日(木)午後4:50 [191ch][HV][5.1][字]

「スペース カウボーイ」
5月16日(日)午後0:40 [191ch][HV][5.1][字]/6月25日(金)午後4:40 [191ch][HV][5.1][字]

「ブラッド・ワーク」
5月16日(日)午後3:00 [191ch][HV][5.1][字]/6月29日(火)午後4:40 [191ch][HV][5.1][字]

「チェンジリング」
5月16日(日)午後5:00 [191ch][HV][5.1][字]
6月1日(火)深夜2:00 [191ch][字]/6月28日(月)午後5:30 [191ch][HV][5.1][字]

「グラン・トリノ」
5月16日(日)よる8:00 [191ch][HV][5.1][字]/5月25日(火)よる9:00 [191ch][5.1][吹]
6月5日(土)午後5:00 [191ch][HV][5.1][字]/6月30日(水)午後4:40 [191ch][HV][5.1][字]



「ダーティハリー」©Warner Bros. Entertainment Inc./「ガントレット」©Warner Bros. Entertainment Inc./「ファイヤーフォックス」©Warner Bros. Entertainment Inc./「目撃」©Warner Bros. Entertainment Inc./「スペース カウボーイ」©Warner Bros. Entertainment Inc./「ブラッド・ワーク」©Warner Bros. Entertainment Inc. /「チェンジリング」©2008 Universal Studios. All Rights Reserved. /「グラン・トリノ」©Warner Bros. Entertainment Inc.



© WOWOW INC