<嵐を呼ぶ女 ― 風と砂塵と四十の"拳銃"と>

40chonokenju.jpg 映画の冒頭、荒野の平原の一本道を1台の馬車が前進するなか、まるでそれを呑みこむかのようにその背後から次第に黒々とした雲影が広がっていく様子を俯瞰の遠景で捉えた、思わず息を呑む見事なオープニング・ショットに続いて、何かが迫り来るただならぬ気配に気づいてバリー・サリヴァン扮する主人公が馬車を止めると、全身黒ずくめの衣裳に身を包み、白馬に跨ったバーバラ・スタンウィックを先頭に、彼女に付き従う40人の男たちから成る騎馬の群れが不意に前方から現れて、疾風怒濤の如く馬車の両脇を猛然と駆け抜けてゆき、その後には、ただもう全身埃まみれとなり、ひたすら呆然とした表情を浮かべるばかりの主人公ら3兄弟が取り残される......。

 『裸のキッス』(1964)でも、のっけからヒロインが男の顔を靴で繰り返し殴りつけるという異様な場面から映画が幕を開け、しかもなお、その最中に彼女の頭髪がするりと抜け落ち、その下からつるつるの女の坊主頭が現れ出るというさらなる驚愕の必殺パンチを繰り出して、観客を早々にKOしてみせたサミュエル・フラー監督だが、この『四十挺の拳銃』(1957)の導入部も、それに勝るとも劣らない速攻技で観る者を一気に活劇世界のただなかへと引きずり込み、いつ見てもゾクゾクとシビレてしまう。

 この作品の発表当時、「白黒のシネマスコープによって十日足らずで撮影されたこの露骨で荒々しい西部劇は、[...]どの場面にもどのカットにも、きわめて豊かな創意があふれ、演出のアイディアがふんだんに詰め込まれた映画である」と述べ、ハリウッドの異端児的存在たる映画作家フラーの才能と実力をいち早く認めて激賞したのは、若き批評家時代のジャン=リュック・ゴダールだった(「ゴダール全評論・全発言I」)。続けてゴダールは、その演出の大胆さは、アベル・ガンスやエリッヒ・フォン・シュトロハイムの天才的狂気を思い出させるものである、として、これまた観客の度肝を抜く名高い衝撃的なクライマックスの対決場面をはじめ、3つの場面をその例に挙げて紹介するだけに留まらず、そのうちの1つ―ジーン・バリーが女鉄砲鍛冶師のイヴ・ブレントをライフルの銃口を通して見つめ、次の瞬間には2人がキスし合う画面に切り替わる―を、それから2年後に自ら発表する長編処女作『勝手にしやがれ』(1959)の中にちゃっかり換骨奪胎して"引用"してみせてもいる。さらにゴダールは、『気狂いピエロ』(1965)ではフラー本人を映画の中に登場させて、例のあまりにも有名な名台詞「映画とは戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。一言でいえばエモーションだ」を語らせ、また『メイド・イン・USA』(1966)では、敬愛する2人の映画作家ニック(=ニコラス・レイ)とサミュエル(・フラー)に献辞を捧げていることは、映画ファンには既に周知の事実だろう。

 先に述べた通り、スタンウィックは、40人の男たちを従え、旋風を巻き起こしながら、主人公や我々観客の前に颯爽と登場し、その威風堂々たる姿はまさに西部の女王と呼ぶにふさわしい。本作のヒロインを好色な女傑として名高いロシアの女帝エカテリーナ2世になぞらえる評者もいるが、フラー監督自身、その辺のことは充分承知していて、映画の題名にある拳銃とはズバリ、男性器のことだと自伝の中で言い切っている。実際、劇中には、スタンウィックが、西部の名うてのガンマンたるサリヴァンに自慢の銃を「さわらせてくれる?」と要求し、「暴発するかも」とサリヴァンが切り返す、意味深できわどい台詞の応酬もあり、本作を、やはり主役の男女が拳銃を介して暴力的かつエロティックに結びつくジョゼフ・H・ルイス監督の傑作活劇『拳銃魔』(1950)の世界に近づけている。

 また、スタンウィックとサリヴァンの運命的な出会いが、物語の中盤では冒頭の旋風をさらに凌駕する凄まじい砂嵐を呼び寄せることにもなり、ジョーン・クロフォード扮するやはり男勝りのヒロインが独力で西部に自らの根城を築き上げる、あのニコラス・レイ監督の異色西部劇『大砂塵』(1954)に代わって、本作をその題名で呼ぶことも充分可能だろう。この時、竜巻に煽られてヒロインが落馬し、鐙になお足を取られたまま暴走する馬に引きずられるという場面が出てくるが、スタンウィックは、代役なしにこの危険なスタント場面を自ら志願して見事にやってのけた。本作の鉄火肌のヒロインは、まさに彼女をおいてほかにはない完璧なハマリ役ぶりだが、実はなんとあのマリリン・モンローもこの役に名乗りを挙げ、ぜひ私にも本読みをやらせて欲しいとフラー監督に直訴したものの、それじゃ映画がコメディになっちまうと言って、フラーは丁重に彼女にお引き取り願ったという。

 本作はまた、やはりレイが監督した『理由なき反抗』(1955)と同様、当時大きな社会問題となっていた"青少年の非行"という主題にフラー監督が取り組んだ作品でもあり、スポイルされて育った反抗的な弟たちの存在が、主人公とヒロイン各自の人生を次第に悩ますようになる。とりわけ、物語の展開上、大きな山場となるのが、スタンウィックのろくでなしの弟が、サリヴァンの命をつけ狙ったものの、運命の女神の悪戯から、彼の次弟のバリーを誤って射ち殺してしまう場面。その悲劇は、バリーとブレントとの結婚式の最中に生じる。サリヴァンが花嫁のブレントに祝福のキスをしようと身を屈めたその一瞬の間に、スタンウィックの弟の放った銃弾の狙いが外れ、サリヴァンではなくバリーの体を撃ち抜いてしまうのである。

 ここは、先に紹介したゴダールによる本作の映画評で彼が例に挙げた3つの場面のうち、残る最後の1つとなるもの。彼は、ここでバリーがブレントの腕の中に倒れ込み、2人折り重なるようにして地面にくずおれるため、一体誰が死んだのか観客にはすぐには判らず、一瞬の間をおいてようやくその被害者がバリーであることが判明するとして、「最も美しい場面」とまで絶賛している。短いカットを素早く積み重ね、目にもとまらぬ速度で急展開するこの場面とは対照的に、町を闊歩する主人公たち兄弟の姿を長廻しの移動撮影で延々と追い続ける場面や、先にも軽く触れたクライマックスの場面など、本作はそれ以外にもなお多くの見せ場があり、はたしてこのゴダールの評価が妥当かどうかは、あれこれ選択に迷って判断が難しいところだ。

 例えば、先の場面に引き続いて、それまで純白のウェディング・ドレスに身を包んでいた花嫁のブレントが、次のカットではたちどころに黒の喪服をまとい、悲嘆にくれて墓前に立ちつくすという、目にも鮮やかな劇的転換も実に素晴らしく、フランソワ・トリュフォーの『黒衣の花嫁』(1968)も、きっと本作に多くを負っているに違いない。また、結婚式から葬式、幸福から絶望、動から静へと、ここで一瞬にして多くのギアが切り替わり、奇しくもバリーとサリヴァンの生死が入れ違うのと同様に、このドラマの一大転換点において、スタンウィックとブレントの運命もスイッチしたことに、ぜひ留意してみて欲しい。この先は見てのお楽しみとしてあえて詳述は省くが、ブレントが白から黒の女へと変身するのとは逆のコースをスタンウィックは辿り、そして、西部の女王から自分の身一つのただの女へと彼女は生まれ変わっていくのである。


「四十挺の拳銃」
[191ch][HV][字] 3月9日(水)午前9:20



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