90年代洋楽ヒップホップ考(2015/5/25配信)

2015/05/26

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今回のテーマは『90年代洋楽ヒップホップ考』
西寺郷太さん、宇野維正さん、丸屋九兵衛さん、東美樹さんでお送りしました!

 

美樹ちゃんと丸屋さんのファッションチェックからスタートした今回のぷらすと。

丸屋さん、本日は2pacが出演した映画「Juice」が放映された年の「92」のロゴが入った90年代ヒップホップらしいTシャツで来て下さいましたが、最近は90年代の頃に着ていた様な、Pファンクとロード・オブ・ザ・リングの中間くらいのコスプレに戻っているのだとか。

そんな丸屋さんのブーツィー・コリンズとの90年代エピソードも聞きつつ、今回はディアンジェロ回ぶりの4人で90年代洋楽ヒップホップについて語ります!


ヒップホップは80年代の途中からオーバーグラウンドに出てきました。

70年代末にはアンダーグラウンドでレコードが出始め、80年代に入るくらいにはどうやらラップというものがあるらしい、ということが分かり始めます。

しかし80年代前半はまだラップは誰にでもできると思われていた時代で、ヒップホップらしいターンテーブルと簡素な打ち込みが主流。83年にはハービー・ハンコックの「Rockit」などによって、レコードをこするスクラッチなどの技が知られ始めますが、まだまだノベルティである時代でした。


それを本気で聴くに値する音楽らしい、ということをわからせてくれたのがRun-DMCのアルバム「Raising Hell」であり、「Walk This Way」。

このおかげでファンクとヒップホップの立ち位置が逆転しだし、ヒップホップはどうやらノベルティではないらしいということが分かったのです。

この出来事が86年。それまではまだポップスがメインストリームであり、ヒップホップはカウンターカルチャーだったけれど、それが崩れたターニングポイントとして重要だと郷太さんは語ります。


その後80年代が後半に入りもう一つ重要なポイントとなったのがパブリック・エナミー。

彼らの出現により、それまでの歌詞が"俺かっこいい"とか"金持ってるぜ"という自己主張だったのが、メッセージ性を帯びていきます。これが黒人以外にとってのヒップホップの象徴になったことで、ヒップホップというのはどうやら拳を掲げながら現実に対する怒りやメッセージをぶつけるモノらしい、という考えが広がることに。

「とにかく音の構造自体が尖りまくり。いわゆるヒップホップは色んなルールがあるけど、パブリック・エナミーは掟破りでロック的なフックだらけ。流行とか関係ないところで、とにかく刺激があるものを作ろうとしてる」という宇野さん。

丸屋さんも、ブラックミュージックは基本的にはその時、流行っているものに飛びつき合わせるフットワークの軽さが命だと語りましたが、このパブリック・エナミーのスタイルが当時の音楽好きに受けたのです。


この時期はニュージャックスイングのブームもあり、ヒップホップとR&Bに両方にまたぐようなビートが一世を風靡。丸屋さんには当時のニュージャックスイングの流行の髪型も見せて頂きました!


ニュージャックスイングは92年で衰退し始めますが、同時期の88~96年にかけて西海岸から生まれた、ギャングスタ・ラップが全盛期を迎えます。

それまでの日本における黒人音楽好きは、夜遊び好きで踊りが好きな陽気な遊び人のイメージ。しかし、ギャングスタ・ラップが出てきた90年代のある時点から日本におけるブラックミュージック好きのイメージが変わり、危険な人達のイメージになったという丸屋さん。

一方で宇野さんは、遊び人だけじゃなく普通の音楽好きにとってのヒップホップは連綿とあって、そこの分断でギャングスタ・ラップが踏み絵になっていったと話し、日本のヒップホップの需要環境としては絶対見逃せないと語ります。

また、ギャングスタ・ラップと同時進行ではネイティブタン一派のデ・ラ・ソウルやア・トライブ・コールド・クエストの流れもあって、マニアックなヒップホップ音楽好きにとっては必須科目だったけど、ギャングスタ・ラップ一色になった段階で、何を聴いたらわからない時期があったとも語られました。 


音楽性としても、ヒップホップの世界をプロレスとして楽しめる人と音にしか興味がない人に二分され、音にしか興味がない人が聞くものが無くなったのが90年代なかば。サンプリングに関しても、東海岸側の人達がPファンクをサンプリングするのは当たり前だったのに、ギャングスタ・ラップ以降、西海岸側の人しかPファンクを使わない傾向にもなりました。

 

サンプリングでシーンを席巻したのがドクター・ドレー。彼の登場は90年代においてとてもエポックメイキングなことでした。

初期のヒップホップの面白さをそのままサンプリングすることだとすると、似たものをわざわざ作るのではなく、ドレーのように全く別の発想で作る方がハイファイで新発想だと語った郷太さん。宇野さんはそのハイファイさから後に彼がヘッドホンを作るのも良くわかると話しました。

さらに、丸屋さんは彼の音に対する異常な執着心と、プロデュースやミックスのクオリティの高さについてトーク。宇野さんは、それまで個性があったヒップホップが、ドレーの出現によってある種金太郎飴状態になったことに当時は由々しき事態だと感じたそうですが、今になってみるとその金太郎飴の高品質さに気付いたのだとか。

 

この西海岸の全盛期は、96年に2Pacが亡くなったことで、終わりを迎えます。

そのきっかけが東西抗争と言われる東のバッド・ボーイ・レコード対西のデス・ロウ・レコードの抗争です。

94年11月に2PacはNYでのレコーディング時にスタジオのロビーで強盗に襲われます。その際、同じビルにバッド・ボーイ・レコードの設立者パフ・ダディと看板MCのノトーリアス・B.I.G.もいたのに助けてくれなかったことから、もしかしてあいつ等が仕組んだんじゃないかと2Pacはかんぐり、東海岸やバッド・ボーイを攻撃し始め、バッド・ボーイ対デス・ロウの構図が生まれました。

 

これについては諸説ありますが、対立構造を作ることで盛り上りメディアにも取り上げられることから半分プロレス的に始まったものの、段々みんな本気になっちゃって止められなくなったのだろうという宇野さん。しかし、そうやってどこまでが冗談でどこまでが本当か分からなくなってる中で、本当に人が死んでしまいます。

ヒップホップは本来、実力の暴力を伴った喧嘩ではなく、ラップやグラフィティやダンスやDJのスキルを競って平和的に解決しようと生まれたもの。しかし、その力を競う内に実力行使に戻ってしまったのがこの時代の不幸だと丸屋さんは語りました。


地域によって対立するなど、ヒップホップは私達が思っている以上に地元のコミュニティと密接に関わっています。

94年頃には東と西だけじゃない何かも色んな所で生まれます。その一つの形がコモンなどに始まる、今で言う意識高い系。

今回はコモンの『RESURRECTION』から「 I USED TO LOVE H.E.R.」をお届けしましたが、これもその流れにある1曲で、ヒップホップが西に偏出していったことを嘆く、94年の象徴的なナンバーです。

当時はシカゴ、アトランタ、ウォークランド、クリーブランド、など様々な土地からヒップホップが出ていき、さらに96,97年ごろには西でも東でも無い、マスターPが活躍したニューオリンズの時代も来ました。

黒人文化を理解するうえで地名はとても大切。アメリカと一口に言っても、凄い対立構造や土地の象徴性があるのだと語られました。 


さらに丸屋さんはご自身が凄く好きだというN.W.A.誕生にまつわるエピソードを披露!

N.W.A.はドクター・ドレーが駐車違反で捕まり、当時ドラッグディーラーをやっていたイージー・Eに保釈金を出してもらったことでイージー・Eの為に働かなくてはならなくなり、グループを結成。保釈金の事件がなければN.W.A.もなかったし、ドレーも出世しなかったし、スヌープ・ドッグもデビューしていないのです! 

 

今年の夏にはアメリカでN.W.A.の伝記映画も公開予定で、彼らが居なければ90年代のヒップホップ地図が変わっていたかもと語られましたが、保釈金事件が彼らを出会わせ、90年代のヒップホップ史を変えたのです!


80年代からのヒップホップの流れも含め、各地毎の音楽についても知ることができた今回。美樹ちゃんは「流れもわかったし、やっぱりアメリカって広い!ロックとはまた違って線で結ばなきゃいけないし、地域で文化があるように音楽にも文化があるんだなあと思った!」と話してくれましたが、それぞれの時代と土地の背景を知ることで理解を深めることができました!


まだまだ90年代後半については語り足りない!ということでリターンマッチに期待です!


WOWOWではpringroove 2015を6/22(月)よる6:00~放送!


ヒップホップ/R&B・シーンの先端を走る旬のアーィストたちが繰り広げる春の祭典です!

本日のぷらすととあわせてお楽しみください!

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