ヴェンダースを語る。(2015/6/5配信)

2015/06/08

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今回のテーマは『ヴェンダースを語る。』
立川吉笑さん、松崎健夫さん、福永マリカさんでお送りしました!

今回のヴェンダース回にあわせて、まず最初に「ベルリン・天使の詩」を見たという吉笑さんとマリカちゃん。
健夫さんは、マリカちゃんの独特な視点と吉笑さんの天使の疑問を受け、この映画は言葉がいっぱいあるけれど説明はない珍しい作品だと話します。
「ベルリン・天使の詩」はミニシアターが広まったきっかけのひとつとなった作品で、公開時、東京地区では30週のロングラン上映を記録。ただ、当時の人は言語化して解説できるほどわかったかというとそうじゃないだろうけれど、何となくいいなあと思った人が多いだろうという健夫さん。
健夫さんも「パリ、テキサス」を高校生くらいで見た時に、何で良いのかということを言語化できなかったそう。
言語化するのに時間がかかるというヴェンダース作品。今回はその理由を解き明かします!

ヴィム・ヴェンダースは1945年生まれのドイツ人。彼は最初から映画監督を目指していたわけではありませんでした。
大学は医学部、哲学科を転々とするも面白くなくて辞めてしまい、画家になるためにパリへ。でもパリでは美術をやらずに映画ばかり見ていました。パリで映画学校の試験を受けるも受からず、映画会社のデュッセルドルフ支社で採用になったことで、就職の為に仕方なくドイツに帰ります。

彼が映画監督になれた一番の大きな要因は、才能や夢ではなく、幸運。これは本人も言っていることで、スタートがとても恵まれていました。
ドイツに戻ったヴェンダースはミュンヘンの映画大学で短編を作りながら映画のことを学びますが、そこで幸運だったのが卒業制作で監督をできたこと。何人もの監督を目指している人がいる中でも、監督ができたのはヴェンダースだけなのです。
更に幸運をもたらしたのがペーター・ハントケ。彼はヴェンダースの友達で、小説家として有名になりましたが、ヴェンダースは卒業制作にしていきなりペーターのベストセラー作品を映画化することができました。このはじめての監督作がいきなりベネチア国際映画祭に出品され、しかも審査員賞も受賞!

また、生まれた時代と場所も一つのめぐりあわせ。彼はファシズムのドイツを生きた一人であり、ドイツに対する相反する気持ちと、アメリカに対する憧れを強く持っていました。
ヴェンダースはニュー・ジャーマン・シネマという映画運動の中にいた一人。今までのドイツ映画とも世界中の映画ともちょっと違う、国ごとにそれまでにない映画表現を模索して作っていこうという意識で作品を作っていた仲間が同時多発的に居て、その流れの中にいたことも幸運のひとつ。
ただニュー・ジャーマン・シネマはアメリカン・ニューシネマやヌーベルヴァーグのような新しい価値観が生まれるには至らず、これといった特徴はありません。ヴェンダースはそれだけじゃだめだと感じ、視点が外に向って行くようになります。また、ヴェンダースはポップカルチャーを引用することで、アメリカ的なものを作ろうとしたことも当時の特徴。それが作品の評価にも繋がっていましたが、アメリカ文化への憧れの一方、王道への違和感を持っているのが特殊なところでした。

この初期の頃の代表作には「都会のアリス」「まわり道」「さすらい」というロードムービー3部作がありますが、ロードムービーはヴェンダースを語る上で一番重要なキーワード。
ヴェンダースは「アメリカでは目的があって旅先へ行くことを前提とした作品はいっぱい作られてきたけれど、逆に旅先は決まっているけど物語がなくてもいいんじゃないかと思った」ことからロードムービーを思いついたそうで、脚本作るときに物語からではなく、地図上でこういう道を行くっていう事から考えたのでした。

実はこのロードムービーと言う言葉を生んだのもヴェンダース。彼はロードムービーと言う言葉を自分の会社の社名に名付けたのです。
アメリカでもずっと昔からロードムービー的な作品はありましたが、言葉自体は使われておらず、英語文献の中で最初に出たのは、ロードムービーと呼ばれる作品を作る若きドイツ作家がいると76年に紹介されたとき。その時期を考えるとヴェンダースのことと思われると同時に、彼がジャンルの名付け親となったと考えられるのです。

ヴェンダースはその後、作家を育てて行こうという映画業界の流れに乗り、フランシス・フォード・コッポラに声をかけられて「ハメット」を撮影。しかしこの作品は撮影が2度止まり、7年かかって一応完成はするものの結果としては失敗。物語は無くても面白い作品があるのではないか、手法的に同じことをしてはいけない、王道なものに寄らない、などの考えを持つヴェンダースにとって、ハードボイルドの謎解きは向いていないし、ハリウッドのシステマチックな世界では上手く立ち回れなかったようです。

この作品でますますハリウッドへの違和感を増し、脱ストーリー・脱ハリウッドな状態にある中、アメリカ映画の最後を俺が撮ってやる!という意気込みで作られたのが「パリ、テキサス」。
この作品はカンヌでパルム・ドールを獲得し世界中で注目を浴びますが、ここでもまた幸運が。
それが、アートと商業性を兼ね備えた人達を見ぬく感性を持っているアナトール・ドーマンがプロデューサーについたことと、ピューリッツァー賞を獲るほどの劇作家、サム・シェパードが脚本を書いたこと。また、その脚本に手を入れたハンターの実父の功績が大きいとも言われています。
また、未完成の段階からカンヌへの出品が決まっていたため、締切が決まっている状態で作られていきましたが、ヴェンダース曰く、本当はこういう作品になるつもりではなかったのだとか。同時に、物語を重視してないから、自分が取りたい画を繋げば自分が思い描いたものになるという確信があったとも言っていて、締切があったからこそ逆にこの作品が出来たという話もあります。
マリカちゃんにとっても吉笑さんにとっても、人生で1番の映画になったという「パリ、テキサス」ですが、この作品はこのように様々な経緯が重なってできたのです。 

さらに、この映画がすごいのは母と子の再会の場面の描き方。アメリカ映画的な手法を用いながらも、言葉に頼らない手法をとることでアメリカ映画ではないことを実践したのです。
このことを黒沢清さんは健夫さんが受けていた授業の中で、「世の中には話が分からない映画は今も昔もあるけれど、お話は確実にあるようなんだけれど、それを一言では説明しにくい映画がそこにあった」と話されたそうです。さらに、「自分が訳もなく撮りたいカットがこの人にはあるんじゃないか。物語がどうこうじゃなくて、この画が欲しい、撮りたいというものがあるんじゃないか」というお話に健夫さんはなるほどと思ったのだとか。
つまりヴェンダースは、物語より画を優先することが正解と言う確信があるからこそ、物語を壊そうとしているのではなく、撮りたいイメージを積み重ねることで映画ができるのではないかと考えている人なのです。

また、彼のもう一つの特徴は時代に合わせた課題をこなすこと。ずっとロードムービーをやればいいとは思っていなくて、演出方法の更なる方法を模索しています。その象徴がマジックミラーでの対面のシーン。この場面でイマジナリーラインというかつての映画作家や評論家が確立した手法の問題を自分なりに解決しようと実践したのです。
ヴェンダースは91年時点で、21世紀には映画は滅びるんじゃないかと映画の未来についてネガティブな発言を残していますが、新しいメディアが出た時にはそれに挑戦し時代の変化を受け取ることもやってきています。
それは、映画が違う形になっても映画を作り続けなければならないという気持ちが彼の中に強いと思うという健夫さん。新しいものを使ってでも作るのは、古いものを否定するのではなく、映画を映画以外のモノから守ることをずっとやっているのだと思うと語られました。

最後に健夫さんのオススメ3作を発表!(写真2枚目)
ドキュメンタリーの「東京画」
WOWOWで放送される「ベルリン、天使の詩」
そして「パリ、テキサス」
の3作品!

ベルリン・天使の詩は7/16(木)午後0:45の放送の他に、6/16(火)まではWOWOWメンバーズオンデマンドで配信していますので、待ちきれない皆さんはぜひオンデマンドもご利用ください!

そしてヴェンダースが製作総指揮を務めたドキュメンタリー国際共同制作プロジェクト もしも建物が話せたらも放送!

前編は6/29(月)深夜0:45から、後編は6/29(月)深夜2:15からお届けします!こちらもお見逃しなく!

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